真田信繁(幸村)の官職・左衛門佐により衛門府を調べてみました。歴代任官者には小早川隆景、金吾中納言で名高い小早川秀秋は左衛門督、「左衛門尉」任官者には源義経・楠木正成らがいる。「金吾」は衛門府の唐名である。
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真田信繁の官職・左衛門佐と衛門府についての記事投稿です。
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それではいってみよう!
真田信繁(幸村)の官位
1994年(文禄3年)11月2日、真田信繁(幸村)が従五位下・左衛門佐を叙位叙任。「豊臣姓」を下賜。
左衛門佐(さえもんのすけ)は、左衛門府(さえもんふ)の次官。
これ以降、衛門府について書いていこうと思う。
衛門府
衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。
- 808年(大同3年)、(左右)衛士府と統合されて一旦廃止。
- 811年(弘仁3年)、左右衛士府の改称に伴って復置。左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。
唐名は金吾・監門・監府。長官は衛門督(後に左衛門督・右衛門督)。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称。
当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。
職掌は、大内裏の外郭のうち、建春門・建礼門・宜秋門・朔平門より外側で陽明門・殷富門・朱雀門・偉鑒門より内側を警備すること。
のち職掌は、検非違使庁に奪われる。検非違使庁も最初は衛門府内に置かれ、衛門府の官人が検非違使を兼務していたため。
督・佐・大尉・少尉・大志・少志
左衛門の陣所は建春門に、右衛門の陣所は宜秋門。
- 督-従四位下に相当。定員は左右各1名。権官なし。中納言・参議が兼任することが多く、左右兵衛督を加えた計4名のうちの1人が検非違使別当を兼ねるのが慣例。唐名は金吾大将軍・監門大将軍。
- 佐-従五位上に相当。定員は左右各1名。権官あり。左右衛門権佐は検非違使宣旨を蒙る例であった(正官である左右衛門佐は検非違使を兼ねない)。唐名は金吾将軍・金吾次将・監門小将軍・監門次将。
- 大尉・少尉-従六位下・正七位上に相当。定員はそれぞれ左右各2名(後に増員)。唐名は金吾長史・金吾校尉・監門長史。通常大尉には公家、少尉には武家が任命。
- 大志・少志-正八位下・従八位上に相当。定員は左右各2名。衛門府の衰微にともない任官者がなくなっていった。
- 医師-正八位下に相当。
- 衛士-宮城の警備・統括者として番長、当直として吉上が置かれる。
門部、物部、府掌、使部、直丁らがいた。
武家官位
次第に衛門府の職掌は検非違使・武家に奪われ、鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していった。
しかし衛門府などの武官官職は特に武家に好まれ、武家に対して与えられるようになっていった。
室町時代では三管領家の一つである畠山氏の当主が左衛門督に代々任官したため、同家は「金吾家」とも称された。
小早川秀秋は中納言の官職と左衛門督を兼帯したため、「金吾中納言」と称された。
各地に割拠した戦国大名が左衛門少尉を略した「左衛門尉」を受領名として家臣に与え始めた。
江戸時代になると武家官位の制度が確立して、朝廷とはなんの関係もなくこの「左衛門尉」が旗本や御家人などの中級武士に与えられるようになる。「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山景元がいい例である。
代表的な任官者
主な任官者を抜粋。
(左衛門督)
- 源頼家
- 畠山満家
- 畠山持国
- 畠山政長
- 朝倉義景
- 大崎義隆
- 島津歳久
- 酒井忠次
- 小早川秀秋
(左衛門佐)
- 小早川隆景
- 真田信繁
(左衛門尉)
- 源満政
- 源為義
- 源頼賢
- 源兼綱
- 源義経
- 宇都宮朝綱
- 宇都宮成綱
- 安達景盛
- 足立遠元
- 小山朝政
- 工藤祐経
- 島津忠景
- 島津忠綱
- 島津忠時
- 赤松範資
- 楠木正成
- 楠木正行
- 佐々木道誉
- 長尾景春
- 相良為続
- 松井宗信
- 村上義清
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
あらためて「左衛門佐」「衛門府」を調べてみた。
みなさまのお役に立てばと思っています。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。