【真田丸】主要人物(真田家・豊臣家・徳川家・上杉家)の官位

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大河ドラマ「真田丸」に登場する主要人物の官位についてまとめてみた。真田家・豊臣家・徳川家・上杉家の人々になります。下記に記述する人物の官位はほとんど正式な官位です。特に秀吉は武家関白制をめざしたので、武家官位を重視していました。官位という視点から記事を投稿します。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

大河ドラマ「真田丸」に登場する主要人物の官位の記事投稿です。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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戦国時代の官位

戦国時代の官位は以下の3つのパターンがある。

  • 勝手に自称する。
  • 主君から与えられる。
  • 正式に朝廷に申請する。

真田家の官位

真田信繁(幸村)と六文銭-アイキャッチ画像

真田家の官位を記述。

真田昌幸・真田信之(信幸)・真田信繁(幸村)になります。

真田家の祖、真田幸隆と真田昌幸親子の官位を調べた!
真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。

真田昌幸の官位

真田昌幸:従五位下・安房守。

真田昌幸に関しては、1994年(文禄3年)に太閤・豊臣秀吉が関白・豊臣秀次に叙位の指示をしてます。これにより正式となる。

真田信之(信幸)の官位

真田信幸(信之) :従五位下・伊豆守、従四位下・侍従。

1994年(文禄3年)11月2日、真田信之が従五位下・伊豆守を叙位叙任。「豊臣姓」を下賜。

従四位下・侍従に関しては年代がわからず。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

真田信繁(幸村)の官位

真田信繁(幸村):従五位下・左衛門佐。

1994年(文禄3年)11月2日、真田信繁(幸村)が従五位下・左衛門佐を叙位叙任。「豊臣姓」を下賜。

真田信繁の官職・左衛門佐により衛門府を調べる。「金吾」の由来も
真田信繁(幸村)の官職・左衛門佐により衛門府を調べてみました。歴代任官者には小早川隆景、金吾中納言で名高い小早川秀秋は左衛門督、「左衛門尉」任官者には源義経・楠木正成らがいる。「金吾」は衛門府の唐名である。
真田丸、真田信繁(幸村)と六文銭
2016年1月10日から放映される大河ドラマ「真田丸」を見るにあったて、真田信繁(幸村)を調べてみた。近年ゲームキャラクターとしての真田幸村は凄まじい人気です。「真田十勇士」などの人気も手伝ってキャラクターが実際の真田幸村を超越してるように思われます。こんなこというと夢を壊すようですが。。

豊臣家の官位

五七桐,画像

豊臣家の官位を記述。

  • 豊臣秀吉
  • 豊臣秀頼
  • 豊臣秀次
  • 豊臣秀長
  • 豊臣秀勝
  • 豊臣秀保
  • 小早川秀秋
  • 宇喜多秀家
  • 加藤清正
  • 福島正則
  • 石田三成
  • 大谷吉継
  • 片桐且元
  • 平野長泰
  • 長束正家

を紹介する。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

豊臣秀吉の官位

羽柴秀吉は最初、征夷大将軍の就任を目指していたようだ。しかし足利義昭に猶子の件を断られると征夷大将軍を断念した。

これにより菊亭晴季のすすめもあり、関白相論に介入して関白宣下を受ける。

  • 1575年-天正3年7月3日-筑前守
  • 1584年-天正12年10月3日-従五位下・左近衛権少将
  • 1584年-天正12年11月21日-従三位・権大納言
  • 1585年-天正13年3月10日-正二位、内大臣宣下
  • 1585年-天正13年7月-近衛前久の猶子となる、藤原改姓
  • 1585年-天正13年7月11日-従一位・関白宣下、内大臣如元

  • 1586年-天正14年9月9日-賜豊臣氏
  • 1586年-天正14年12月19日-内大臣辞職
  • 1586年-天正14年12月25日-太政大臣兼帯
  • 1591年-天正19年12月-関白辞職、太政大臣如元
  • 1598年-慶長3年-太政大臣辞職
  • 1598年-慶長3年8月18日-伏見城で薨去。
  • 1915年-大正4年11月10日-贈正一位

菊亭晴季(今出川晴季)。豊臣政権に関与し、娘・一の台は秀次の正室
菊亭晴季(今出川晴季)。羽柴秀吉に関白任官をすすめて豊臣政権と密接な関係を築いた。官位は従一位・右大臣。娘・一の台は豊臣秀次の正室。豊臣秀次事件に連座したとして越後に流罪となるが、徳川家康のとりなしにより右大臣に復職している。
羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。

豊臣秀頼の官位

押小路家文書によれば、左大臣の辞令(宣旨)が現存するらしいが右大臣までとした。

1596年(文禄5年)5月、「太田牛一旧記」によれば、「左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)従四位下(じゅしいのげ)臣豊臣朝臣藤吉郎秀頼」を名乗ったとする。

最初は、従四位下・左近衛権少将に叙任、すぐに左近衛権中将のようです。

  • 1597年(慶長2年)9月27日、従三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
  • 1598年(慶長3年)4月20日、従二位に叙し、権中納言に任ず。
  • 1601年(慶長6年)3月27日、権大納言に任ず。
  • 1602年(慶長7年)1月6日、正二位に叙す。
  • 1603年(慶長8年)4月22日、内大臣に任ず。(徳川家康の右大臣昇進のため)
  • 1605年(慶長10年)4月13日、右大臣に任ず。(徳川家康辞任のため。後任の内大臣は徳川秀忠)
  • 1607年(慶長12年)1月11日、右大臣を辞す。

中将から参議を経ずに直接中納言に任ずるのは、羽柴家が摂関家であることを明示。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

豊臣秀次の官位

近江宰相・近江中納言と称された関白・豊臣秀次の官位。

  • 1585年(天正13年)10月、従四位下・右近衛権少将に叙任。
  • 1586年(天正14年)春頃(4月前後)、右近衛権中将に転任。
  • 1586年(天正14年)11月25日、参議に補任。右近衛権中将如元。
  • 1587年(天正15年)11月22日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。新中納言と称される。のちは近江中納言、江州中納言とも称される。
  • 1588年(天正16年)4月19日、従二位に昇叙。権中納言如元。清華家の家格に列す。
  • 1591年(天正19年)2月11日、正二位に昇叙。
  • 1591年(天正19年)11月28日、権大納言に転任。
  • 1591年(天正19年)12月4日、内大臣に転任。

  • 1591年(天正19年)12月28日、関白宣下。内覧宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。
  • 1592年(文禄元年)1月29日、左大臣に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。
  • 1592年(文禄元年)5月17日、従一位。
  • 1595年(文禄4年)7月8日、出家。
  • 1595年(文禄4年)7月15日、豊臣秀次没す。

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

豊臣秀長の官位

大和宰相・大和大納言と称された豊臣秀長の官位。

  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いの功により従五位下・美濃守。
  • 1585年(天正13年)10月4日、従四位下参議兼右近衛権中将。「大和宰相」。
  • 1586年(天正14年)10月4日、従三位・権中納言。
  • 1587年(天正15年)8月8日、従二位・権大納言。徳川家康と同位同日に任官。「大和大納言」。
  • 1588年(天正16年)4月15日、後陽成天皇が聚楽第へ行幸。天皇に諸大名が提出した起請文では、唯一豊臣姓を署名。

豊臣秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識、大和宰相~大和大納言
羽柴(豊臣)秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識。もとは尾張国中村生まれの百姓である。兄・秀吉が天下人になると100万石を超える大大名になった。領地と官位から大和宰相、大和大納言と呼ばれた。豊臣政権では政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。また秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったのだが・・・。

豊臣秀勝の官位

豊臣秀勝(羽柴秀勝)の官位。

  • 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。
  • 1591年(天正19年)11月、兄・秀次が秀吉の養嗣子となる。秀勝は従四位下・参議に任官。

秀勝は他に年代はわからないが、侍従、左近衛権少将に任じられている。最終的には正三位・中納言。

豊臣秀勝。正室は江、小吉秀勝。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后
豊臣秀勝。正室は江(淀殿の妹・のち徳川秀忠の正室)。兄は関白・豊臣秀次。母は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。他の秀勝との呼び分けとして、小吉秀勝と呼ぶことがある。官位は正三位・中納言。文禄の役で戦病死。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后。

豊臣秀保の官位

大和中納言と称された豊臣秀保の官位。

従四位下・参議兼近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜される。

  • 1592年(文禄元年)1月29日または2月7日、従三位・権中納言に任官。「大和中納言」「郡山中納言」と呼ばれた。
  • 1595年(文禄4年)4月16日、急死。享年17。死後、大納言が遺贈。

豊臣秀保(羽柴秀保)。義父・豊臣秀長から通称は大和中納言
豊臣秀保(羽柴秀保)。兄は関白・豊臣秀次。母は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。正室・おきくは豊臣秀長の娘なので従姉妹になり、秀長は叔父であり養父になる。一時期は関白候補とする資料も残されている。死因については病死となっているが、資料によっては溺死とも書かれている。

小早川秀秋の官位

金吾中納言・小早川秀秋の官位。

  • 1591年(天正19年)、豊臣姓を確認。
  • 1592年(文禄元年)、従三位・権中納言兼左衛門督に叙任。「丹波中納言」と呼ばれた。

ほか参議も確認されている。

小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

宇喜多秀家の官位

備前宰相・宇喜多秀家の官位。

  • 1586年(天正14年)、正室に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を迎える。外様ながら秀吉の一門衆としての扱いを受ける。
  • 1587年(天正15年)、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられる。
  • 1594年(文禄3年)、文禄の役などの功により、参議から従三位・中納言に昇叙。
  • 1598年(慶長3年)、日本に帰国。五大老就任。

ほか侍従、参議、左近衛権中将が確認されている。

宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

加藤清正の官位

加藤清正の官位について。

  • 1585年(天正13年)、従五位下・主計頭に叙任。
  • 1603年(慶長8年)、豊臣姓を下賜。
  • 1605年(慶長10年)、従五位上・侍従兼肥後守に叙任。のち従四位下(年代わからず)。
  • 1910年(明治43年)、従三位を追贈。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

福島正則の官位

福島正則の官位。

  • 1585年(天正13年)7月16日、従五位下・左衛門大夫に叙任。平正則。
  • 1597年(慶長2年)7月26日、侍従に任官。豊臣正則。羽柴の名字も同時に拝領。
  • 1602年(慶長7年)3月7日、左近衛権少将に転任(従四位下に昇叙か?)。豊臣正則。
  • 1617年(元和3年)6月21日、従三位に昇叙し、参議に転任。豊臣正則。
  • 1617年(元和3年)11月2日、参議辞退。

「左衛門大夫」という官職は実際には存在しない。

正則の時代にはすでにそのような慣習は忘れられて「左京大夫」などの実在の官職との混同が起きていたとする見方があるようだ。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

石田三成の官位

石田三成の官位。

1585年(天正13年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

大谷吉継の官位

大谷吉継の官位。

1585年(天正13年)7月11日、秀吉は関白叙任に諸大夫12名を置いた。従五位下・刑部少輔に叙任。

「源姓」を名乗った説がある。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更。

大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

片桐且元の官位

賤ヶ岳の七本槍のひとり片桐且元の官位。

1586年(天正14年)7月1日、従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)に任官。豊臣姓を下賜。

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

平野長泰の官位

賤ヶ岳の七本槍では唯一大名になっていない平野長泰の官位。

1597年(慶長2年)、従五位下・遠江守に叙任。豊臣姓を下賜。

平野長泰。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない
「真田丸」で平野長泰が登場するとは思っても見なかった。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない。平野氏は鎌倉幕府の執権・北条氏の庶流の子孫、父・長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする説がある。秀吉からは大和国・十市郡田原本近隣七ヶ村に5千石の知行を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。豊臣姓を下賜。

長束正家の官位

五奉行の一人である長束正家の官位。

1597年(慶長2年)、従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従に昇任。

長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。
長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。

徳川家の官位

徳川家葵紋

江戸幕府の創設者である徳川家康を中心とした人物の官位に着目する。

  • 徳川家康
  • 徳川秀忠
  • 本多忠勝
  • 本多正信
  • 前田利長
  • 細川忠興

を紹介する。

徳川家康の官位

徳川家康の官位。

  • 1566年(永禄9年)12月29日、従五位下・三河守。「徳川」に改姓。
  • 1568年(永禄11年)1月11日、左京大夫。
  • 1571年(元亀2年)1月5日、従五位上。
  • 1571年(元亀2年)1月11日、侍従。
  • 1574年(天正2年)1月5日、正五位下。
  • 1577年(天正5年)12月10日、従四位下。
  • 1577年(天正5年)12月29日、右近衛権少将。
  • 1580年(天正8年)1月5日、従四位上。

  • 1583年(天正11年)10月5日、正四位下。
  • 1583年(天正11年)10月7日、左近衛権中将。
  • 1584年(天正12年)2月27日、従三位・参議。
  • 1586年(天正14年)10月4日、権中納言。

  • 1586年(天正14年)10月27日、大坂城にて豊臣秀吉に臣従。
  • 1586年(天正14年)11月5日、正三位。
  • 1587年(天正15年)8月8日、従二位・権大納言。
  • 1587年(天正15年)12月28日、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。
  • 1588年(天正16年)1月13日までに、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
  • 1592年(天正20年)9月16日、豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
  • 1596年(慶長元年)5月8日、正二位・内大臣。

  • 1602年(慶長7年)1月6日、従一位。
  • 1603年(慶長8年)2月12日、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。
  • 1603年(慶長8年)10月16日、右大臣辞任。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、征夷大将軍辞職・源氏長者は留任。
  • 1614年(慶長19年)3月8日、朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
  • 1616年(元和2年)3月17日、太政大臣。
  • 1616年(元和2年)4月17日、死去。
  • 1617年(元和3年)3月9日、贈正一位。

徳川家康は若い頃、無位ではあるが「蔵人佐」を名乗っている。

家康は最初「藤原氏」を名乗り、のち「源氏」を名乗ります。豊臣政権下では「豊臣氏」を名乗り、秀吉の死後は「源氏」に復姓している。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
徳川将軍家が左大臣兼右近衛大将(右大将)を嫌った理由
源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。

徳川秀忠の官位

徳川秀忠の官位。

  • 1587年(天正15年)8月8日、従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
  • 1588年(天正16年)1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を辞す。
  • 1590年(天正18年)1月15日、元服し秀忠と名乗る。
  • 1590年(天正18年)12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 1591年(天正19年)、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。
  • 1591年(天正19年)11月8日、参議に補任。右近衛権中将を兼帯。
  • 1592年(文禄元年)5月9日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
  • 1594年(文禄3年)2月13日、権中納言を辞任。
  • 1601年(慶長6年)3月28日、権大納言に転任。
  • 1602年(慶長7年)1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。

  • 1603年(慶長8年)4月16日、源朝臣秀忠として右近衛大将を兼任。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、源朝臣秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1605年(慶長10年)5月1日、征夷大将軍宣下。
  • 1606年(慶長11年)、内大臣と右近衛大将を辞任。
  • 1614年(慶長19年)3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
  • 1623年(元和9年)7月27日、右大臣を辞任。
  • 1626年(寛永3年)8月19日、太政大臣に転任。
  • 1632年(寛永9年)1月24日、薨去。
  • 1632年(寛永9年)2月10日、贈正一位。

1601年(慶長6年)、1602年(慶長7年)頃までは「豊臣朝臣秀忠」として任官?

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

本多忠勝の官位

本多平八郎忠勝の官位。

1586年(天正14年)11月9日もしくは1588年(天正16年)4月、従五位下・中務大輔。

本多平八郎忠勝の本性は藤原氏。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

本多正信の官位

本多正信の官位。

1586年(天正14年)、従五位下・佐渡守に叙位・任官。

本多正信の本性は藤原氏。

本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚
本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。

前田利長の官位

前田利長の官位。

  • 1585年(天正13年)9月11日、秀吉から羽柴の苗字を賜る。
  • 1585年(天正13年)11月、従五位下・肥前守に叙任。
  • 1586年(天正14年)、従四位下に昇叙。侍従を兼任。
  • 1588年(天正16年)、豊臣の姓を賜る。

  • 1593年(文禄2年)閏9月、左近衛権少将に転任。肥前守如元。
  • 1595年(文禄4年)9月、左近衛権中将に転任。肥前守如元。
  • 1597年(慶長2年)9月28日、参議補任。
  • 1598年(慶長3年)4月20日、従三位・権中納言に昇叙転任。
  • 1599年(慶長4年)閏3月3日、利家が死去。豊臣家五大老の一角として就任。

  • 1599年(慶長4年)12月20日、権中納言辞任。
  • 1605年(慶長10年)6月28日、隠居。
  • 1614年(慶長19年)5月20日、正二位・権大納言追贈。

前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。

細川忠興の官位

細川忠興の官位を記述。

  • 1585年(天正13年)、従四位下・侍従に叙任。羽柴姓を与えられる。
  • 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。

ほか

  • 従五位下・越中守
  • 左少将(左近衛権少将?)
  • 従三位・参議
  • 贈正三位

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

上杉家の官位

上杉家の官位を記述。

上杉景勝・直江兼続になります。

上杉景勝の官位

上杉景勝の官位。

  • 1575年(天正3年)1月11日、養父上杉謙信より諱を景勝と改名させ、弾正少弼の官職を官途書出。
  • 1586年(天正14年)6月22日、上洛により、豊臣秀吉と接見。従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官。
  • 1588年(天正16年)5月26日、上洛し、従三位に昇叙し、参議に補任。清華家の家格に列す。
  • 1589年(天正17年)9月28日時点、近衛中将を兼帯。羽柴の名字と豊臣の姓を与えられ羽柴越後宰相中将と称される。
  • 1594年(文禄3年)10月28日、上洛し、豊臣景勝として、権中納言に転任。
  • 1595年(文禄4年)8月3日、公家武家の法度を徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景とともに連署し、制定。豊家の重要施策において、加判する立場となる。
  • 1597年(慶長2年)6月以降、小早川隆景の薨去に伴い、豊家五大老入り。
  • 1598年(慶長3年)1月10日、豊臣秀吉から陸奥国会津へ移封(120万石)の命が下る。従前、越後中納言と称され、以後、会津中納言と称される。
  • 1598年(慶長3年)4月18日、権中納言辞任。
  • 1922年(大正11年)9月7日、贈正三位。

本姓は平氏、後に藤原氏、豊臣氏を経て藤原氏となる。

直江兼続の官位

直江兼続の官位。

  • 1583年(天正11年)、山城守を称する。
  • 1586年(天正14年)6月22日、従五位下に叙せられる。
  • 1588年(天正16年)8月17日、豊臣姓を下賜。

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まとめ

大河ドラマ「真田丸」を視聴するにあたって、官位がよく出てくるので記事投稿してみました。

みなさまのお役に立てばと思っています。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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