玉日姫については、いろいろな説があるようです。関白・九条兼実の娘(七女)で浄土真宗の開祖・親鸞の妻といわれる人物。親鸞の妻は恵信尼(えんしんに)とされるが、玉日姫と恵信尼が同一人物であるという説もある。親鸞とともに京都へは帰らず、結城で没したとされる。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
茨城県結城市の「玉日姫の墓」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
玉日姫の墓
結城市の城跡公園にも行ったので、「玉日姫の墓」にも行きました。
具体的な場所がわからなかったので偶然見つけることができてラッキーでした。
玉日姫は越後へ流される親鸞の後を追い、侍女・白川局とともに結城に来た。結城に留まり、親鸞の教えを広めることになった。
1254年(建長6年)、玉日姫は結城にて没する。結城に「玉日姫の墓」があるのは、そのためであるとされる。
最初は「玉日姫」の紹介をします。
玉日姫
玉日姫は関白・九条兼実の娘(七女)で浄土真宗の開祖・親鸞の妻といわれる人物です。
玉日姫については、実在の人物ではないなど、賛否両論あるようです。
解明されていないので謎が多いなどと言われている。
案内板によれば、結城城の北には玉日という地名が伝わる。この地名は「玉日姫」にちなんだものとされる。
九条兼実
九条兼実(くじょうかねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。
従一位・摂政・関白・太政大臣。
兼実が40年間書き綴った日記「玉葉」は、当時の状況を知る上での一級史料。
「玉葉」に玉日のことは書かれていないので、実在の人物でないと言われているのでしょうか・・・?
親鸞の妻
親鸞は浄土宗の開祖・法然の弟子。自身も浄土真宗の開祖である。
親鸞の妻は「恵信尼(えんしんに)」と言われるが、
- 法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘・玉日と京都で結婚したという説。
- 法然の元で学ぶ間に、在京の豪族・三善為教の娘・恵信尼(えんしんに)と京都で結婚したという説。
- 京都在所時に玉日と結婚後に越後へ配流、なんらかの理由で越後で恵信尼(えんしんに)と再婚したとする説。
- 玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。
親鸞の妻帯については、以上のような説がある。
どれが本当なのかはわからない・・・。
記念碑
画像はないが、「玉日姫の墓」には記念碑が建立されている。
1908年(明治41年)9月、御廟所を修理、記念碑を建立。荒廃していることに心を痛めたゆかりの人々による。
当時は、玉日姫=九條兼實の娘=惠信尼であった。
碑の「 篆額(てんがく)」は従三位・九條道實公(元、公爵九條道孝の長子、大正天皇の皇后節子の兄)。
撰文並びに書は「 島地黙雷(しまじもくらい)」。
親鸞の妻・恵信尼
それまで玉日姫は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)の妻・恵信尼(えしんに)と言われてきた。
1921年(大正10年)、親鸞聖人の妻・恵信尼が娘・覚信尼(かくしんに)に宛てた手紙等の文書「恵信尼文書」が発見された。
その結果、恵信尼と玉日姫が同一人物かどうかが大きく論議。
玉日姫は、関白・九條兼實(くじょうかねざね)の娘で、親鸞聖人と結婚し「恵信尼」と名乗られたとの定説が覆り、恵信尼は三善為則(みよしためのり)の娘であると判明。
歴史は大きく変わり、「玉日姫」は伝説的な存在となってしまった。
玉日姫の墓の所在地
城跡公園駐車場から徒歩5分。
称名寺(茨城県結城市結城152)から北東1km。
管理人も偶然見つけることができました。
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まとめ
結城市の城跡公園に行く機会があれば、「玉日姫の墓」にも行ってみてください。
結城家初代・結城朝光は東国布教のため常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依した話もあります。
玉日姫が実在の人物であるかわかりませんが、希望としては実在の人物であってほしいです・・・。
いづれにしてもロマンを感じる!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。