織田信長と織田五大将である柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉の官位についてまとめてみました。織田信長の家臣は、意外と高位高官のものがいません。豊臣秀吉の家臣とは、大きく違います。秀吉は天下統一もしてしまい、家臣を繋ぎ止めるために官位、羽柴姓、豊臣姓の乱発をします。信長と秀吉とでは、そこが大きく違います。
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織田信長と織田五大将を「官位」の角度から記事投稿します。
それではいってみよう!
織田信長
織田信長(おだのぶなが)。
官位を年表にまとめます。
- 1549年-天文18年-上総介を自称
- 1566年-永禄9年-尾張守を自称
- 1568年-永禄11年10月28日-従五位下弾正少忠
- 1570年-元亀元年3月14日-正四位下弾正大弼
- 1574年-天正2年3月18日-従三位参議。公卿補任。但し『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。
- 1575年-天正3年11月4日-権大納言。公卿補任
- 1575年-天正3年11月7日-兼右近衛大将。公卿補任
- 1576年-天正4年11月13日-正三位。公卿補任
- 1576年-天正4年11月21日-内大臣。右近衛大将兼任。公卿補任
- 1577年-天正5年11月16日-従二位。公卿補任
- 1577年-天正5年11月20日-右大臣。右近衛大将兼任。
- 1578年-天正6年1月6日-正二位。公卿補任
- 1578年-天正6年4月9日-右大臣・右近衛大将を辞す。公卿補任
- 1582年-天正10年6月2日-本能寺の変にて自害。
- 1582年-天正10年10月9日-従一位太政大臣を贈位贈官。
- 1917年-大正6年11月17日-正一位を贈位。官報(1590号)大正6年11月19日付
柴田勝家
柴田勝家(しばたかついえ)。
従六位下左京大進~従五位下修理亮。
1928年-昭和3年11月10日-贈従三位
丹羽長秀
丹羽長秀(にわながひで)。
越前守。惟住(これずみ)の姓。
滝川一益
滝川一益(たきがわいちます/たきがわかずます)。
従五位下左近尉、左近将監、伊予守。
明智光秀
明智光秀(あけちみつひで)。
従五位下日向守。惟任(これとう)の姓。
羽柴秀吉
羽柴秀吉(はしばひでよし)。豊臣秀吉(とよとみひでよし)。賜豊臣氏。
官位を年表にまとめます。
- 1575年-天正3年7月3日-筑前守
- 1584年-天正12年10月3日-従五位下・左近衛権少将
- 1584年-天正12年11月21日-従三位・権大納言
- 1585年-天正13年3月10日-正二位、内大臣宣下
- 1585年-天正13年7月-近衛前久の猶子となる、藤原改姓
- 1585年-天正13年7月11日-従一位・関白宣下、内大臣如元
- 1586年-天正14年9月9日-賜豊臣氏
- 1586年-天正14年12月19日-内大臣辞職
- 1586年-天正14年12月25日-太政大臣兼帯
- 1591年-天正19年12月-関白辞職、太政大臣如元
- 1598年-慶長3年-太政大臣辞職
- 1598年-慶長3年8月18日-伏見城で薨去。
- 1915年-大正4年11月10日-贈正一位
蹴鞠の会
1575(天正3)年7月3日、東宮(正親町天皇の皇太子・誠仁親王)の蹴鞠の会が行われた。これは織田信長を呼び出す口実で、朝廷より信長の官位昇進の勅諚(天皇の指示)が伝えられた。
信長は自らの昇進は辞退したが、代わりに家臣の官位受領を願い出て、これを許されている。
- 松井友閑:宮内卿法印
- 武井爾伝(じうん):二位の法印
- 明智光秀:惟任(これとう)の姓と日向守
- 梁田広正:名を別喜(べっき)右近
- 丹羽長秀:惟住(これずみ)の姓
- 塙直政:原田の姓と備中守
- 村井貞勝:長門守
- 羽柴秀吉:筑前守
- 滝川一益:伊予守?
長篠の戦いで武田氏に勝利し、朝廷側も信長にすりよったのでしょうか・・・。
惟任・惟任の九州の名族の名や筑前守・日向守があるあたり、九州を意識していたのでしょう。
信長は、三好長慶を尊敬しており、長慶の官位である「筑前守」を秀吉にというところがいいですね~。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
まとめ
管理人の頭の中を整理するために、記事投稿します。もしよかったら参考にしてください。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。