源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。
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徳川将軍家が忌み嫌った「左大臣兼右近衛大将(右大将)」。徳川将軍家の官職に着目したみた。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
徳川将軍家が左大臣兼右大将を嫌った理由
徳川将軍家が左大臣兼右大将を嫌った理由は、室町幕府の6代将軍・足利義教と8代将軍・足利義政の官職が「左大臣兼右近衛大将」だからである。
6代将軍・足利義教は赤松満祐によって暗殺され、これが契機になり「嘉吉の乱」が起こり、幕府は衰退した。
※足利義教の父は、「日本国王」としても有名な3代将軍・足利義満。義教自身は「くじ引き将軍」としても有名。
8代将軍・足利義政は政治を顧みず、将軍継嗣問題により「応仁の乱」となり、室町幕府は機能しなくなり下克上の戦国時代へと突入する。
※足利義政の父は、6代将軍・足利義教。義政自身は、銀閣寺・正室が日野富子としても有名。
家臣に殺されたり、混乱を引き起こした人物の官職だったからである。
よって官職「左大臣兼右近衛大将」は、徳川将軍家から忌み嫌われた。
徳川将軍家の官職
徳川将軍家の官職について。
徳川初代将軍・家康だけ征夷大将軍就任時に、左右どちらかの近衛大将を兼任してない。
家康は1587年(天正15年)12月28日、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。すぐにその職を辞している。
ちなみに将軍宣下の時、家康の官職は右大臣であった。
カッコ内は、征夷大将軍就任時の官職。
- 徳川家康-太政大臣、左近衛大将(右大臣)
- 徳川秀忠-太政大臣、右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家光-左大臣兼左近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家綱-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川綱吉-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家宣-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家継-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川吉宗-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家重-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家治-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家斉-太政大臣、左近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家慶-左大臣兼左近衛大将(左大臣兼左近衛大将)
- 徳川家定-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川家茂-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
- 徳川慶喜-内大臣兼右近衛大将(権大納言兼右近衛大将)
徳川将軍家の通常は、右大臣兼右大将。
このうち左大臣に昇進した将軍は、家光・家斉・家慶の三人。見事に左近衛大将にまで登っている。
左近衛大将から見てみても、家康・家光・家斉・家慶の四人は、生前に左大臣か太政大臣に昇進している。
左大臣兼右大将(右近衛大将)は、一人もいない。
異説はあるが、秀忠以外は「源氏長者」に任じられている。
そして慶喜以外は、生前または没後に太政大臣に昇進している。
将軍継嗣の段階で従一位に叙せられたのは徳川将軍家の中で家慶が初めてである。
権大納言兼右近衛大将
徳川将軍家で唯一人、徳川慶喜の征夷大将軍就任時の官職が「権大納言兼右近衛大将」なので少し書く。
この「権大納言兼右近衛大将」は、源頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)とされた。
記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
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まとめ
武家の棟梁として鎌倉幕府を開いた源頼朝の官職は、権大納言兼右近衛大将。
織田信長の官職は、右大臣兼右近衛大将です。
足利尊氏・豊臣秀吉は左右どちらかの近衛大将になってません。
徳川家康は、源頼朝を尊敬していたといいますし、左右どちらかの「近衛大将」を強く意識していたはずです・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。