長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。
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関東を中心とした武将ゆかりの地の記事投稿をしてみたいと思います。真田丸で後北条氏に興味を持ったので実際に行ったことを記事にしてみようと思いました。できれば後北条氏関連とは思っていますが、たまには違う記事もあるとは思います。
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。
弘道館は幕末に水戸藩主・徳川斉昭によって建てられた藩校。所在地は水戸城の三の丸内。正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定。徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台。明治維新の際には、弘道館戦争(弘道館の戦い)が勃発している。
豊臣秀吉時代(城主・中村一氏)の駿府城は、「太閤軍記」や「家忠日記」に書かれたいたものの実態はわかっていなかった。駿府城跡は2016年(平成28年)より、静岡市が天守台発掘調査を行っていた。今回の発見は、その一環であり、歴史的大発見だ!
水戸城の別名は馬場城・水府城。築城年は建久年間(1190年~1198年)、築城主は馬場資幹(ばばすけもと)。主な城主-大掾氏(馬場氏)・江戸氏・佐竹氏・徳川氏。徳川御三家の水戸徳川家の居城。1871年(明治4年)、廃藩置県により水戸城は廃城。天守相当の御三階櫓は、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失。現在まで再建なし。
交通の要所である沼田城を巡って戦いが繰り返された。天正壬午の乱を経て、沼田領帰属問題が発生。第一次上田合戦と後北条氏の数回の攻撃を真田家は撃退。秀吉の裁定により沼田城は後北条氏が支配する。しかし名胡桃城事件により、小田原征伐。後北条氏は滅亡。そう思うと、なんだかすごい城のように思えてきた・・・。
群馬県沼田市鍛冶町の正覚寺。宗派は浄土宗。山号は法蔵山。1612年(慶長17年)、沼田城主・真田信之の正室である小松姫から改めて現在地が境内として認められた。以後、沼田藩からの庇護の対象となる。小松姫(大蓮院殿)の墓は沼田市指定重要文化財。真田家の重臣である名胡桃城代・鈴木主水が境内で自刃したことでも有名。
行ってみるとよくわかりますが名胡桃城は、両側が切り立った天然の要害である。城郭構造は連郭式の山城。廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている。山城と行っても登山するわけではない。駐車場からはほぼ平城の感覚で見学が可能。名胡桃城といえば「名胡桃城事件」として有名である。
結城家の家祖・結城朝光公の墓所がある称名寺。そして慈眼院結城家御廟を訪ねた。慈眼院結城家御廟は曹洞宗・松月院のすぐ近く。結城城跡である城跡公園に始まり、結城家ゆかりの地を訪れました。特に見てみたかったのは称名寺二条門と結城朝光公の墓です。それから結城家といえば「結城埋蔵金伝説」がある・・・。
結城城の築城は結城家の家祖・結城朝光とされる。朝光は小山政光の三男であるが、源頼朝の落胤説が存在する人物でもある。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに、奥州藤原氏の財宝の大半を朝光に恩賞として与えたとされる。結城家は実際よりも裕福だったようで「結城百万石」とも言われた。「結城合戦」の原因の一つになったのだろうか・・・??
義経の死を知らされた静御前は思案橋より、義経の叔父が住職を務める高柳寺を訪ねる。静御前は出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり22才の生涯を閉じたと伝わる。かつて高柳寺があった場所には、今でも「静御前之墓」が残る・・・。