「 武将ゆかりの地 」一覧

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町

1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区

1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。

米子城。別名は久米城・湊山金城、江戸時代初期には米子騒動の舞台に

米子城。別名は久米城・湊山金城、江戸時代初期には米子騒動の舞台に

米子城は、鳥取県米子市久米町にあった城。城郭構造は梯郭式平山城。別名は久米城・湊山金城。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁。のち鳥取藩の支城となった。城跡は国の史跡に指定されている。1603年(慶長8年)11月には米子城を舞台に「米子騒動」(横田騒動・中村騒動・米子城騒動とも言われる)が起きている。

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城

駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。

長篠設楽原PA。上りは武田軍、下りは織田・徳川連合軍。新東名が延伸

長篠設楽原PA。上りは武田軍、下りは織田・徳川連合軍。新東名が延伸

新東名高速道路の長篠設楽原PA(パーキングエリア)。2016年2月13日(土)に新東名高速道路の豊田東JCT~浜松いなさJCTが開通。上りは武田軍、下りは織田・徳川連合軍をコンセプトにしている。そして珍しい自動販売機。下り線には徒歩5分ほど行ける史跡、茶臼山(ちゃうすやま)の織田信長本陣跡がある。

鷲城跡。小山義政の乱においては本城、本丸には鷲神社。小山市外城

鷲城跡。小山義政の乱においては本城、本丸には鷲神社。小山市外城

関東に在住する管理人が「鷲城」に行ってみた。鷲城(わしじょう)は下野国小山荘(現在の栃木県小山市外城)にあった城。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった「小山義政の乱」において本城としての役割を果たす。城跡は中久喜城跡、祇園城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。