
鉢形城。北条氏邦が入城、後北条氏の北関東支配の拠点。寄居町鉢形
鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。構造は連郭式平山城。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張。八王子城と並び後北条氏の最重要拠点。
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鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。構造は連郭式平山城。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張。八王子城と並び後北条氏の最重要拠点。
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。
1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。
米子城は、鳥取県米子市久米町にあった城。城郭構造は梯郭式平山城。別名は久米城・湊山金城。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁。のち鳥取藩の支城となった。城跡は国の史跡に指定されている。1603年(慶長8年)11月には米子城を舞台に「米子騒動」(横田騒動・中村騒動・米子城騒動とも言われる)が起きている。
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。
尾高城。鳥取県米子市尾高にある中世の城(平山城跡)。城郭構造は連郭式平山城。泉山城(いずみやまじょう)とも呼ばれる。戦国時代は西伯耆の要衝であり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となる。捕縛された山中鹿之助幸盛が下痢と偽り脱出した逸話も残る。
石田堤歴史の広場。石田堤は石田三成が忍城水攻めのために築いた堤とされる。現在は行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて、約250mが残存。「埼玉県指定史跡」となっている。平成27年4月1日にオープン。当時の石田堤の深さまで掘り下げて再現されている。
新東名高速道路の長篠設楽原PA(パーキングエリア)。2016年2月13日(土)に新東名高速道路の豊田東JCT~浜松いなさJCTが開通。上りは武田軍、下りは織田・徳川連合軍をコンセプトにしている。そして珍しい自動販売機。下り線には徒歩5分ほど行ける史跡、茶臼山(ちゃうすやま)の織田信長本陣跡がある。
正定寺。所在地は茨城県古河市大手町7-1。江戸幕府大老を務めた古河城主・土井利勝が開基。開山は当誉玄哲(とうよげんてつ)。浄土宗の寺院。旧土井家江戸屋敷表門である黒門、土井家墓所らは古河市指定文化財である。境内には「土井利勝像」がある。
関東に在住する管理人が「鷲城」に行ってみた。鷲城(わしじょう)は下野国小山荘(現在の栃木県小山市外城)にあった城。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった「小山義政の乱」において本城としての役割を果たす。城跡は中久喜城跡、祇園城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。