思案橋。静御前が源義経を追い行き先を思案したとの伝承。古河市下辺見
源義経は兄・源頼朝に追われて奥州平泉まで落ちのびた。静御前は義経を慕い、侍女・琴柱とともに京を出発。下総国にたどり着いた静御前は、下辺見の茶店で義経の死を知る。静御前が平泉まで行こうか戻ろうか思案した橋。それが「思案橋」と名付けられた・・・。
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源義経は兄・源頼朝に追われて奥州平泉まで落ちのびた。静御前は義経を慕い、侍女・琴柱とともに京を出発。下総国にたどり着いた静御前は、下辺見の茶店で義経の死を知る。静御前が平泉まで行こうか戻ろうか思案した橋。それが「思案橋」と名付けられた・・・。
玉日姫については、いろいろな説があるようです。関白・九条兼実の娘(七女)で浄土真宗の開祖・親鸞の妻といわれる人物。親鸞の妻は恵信尼(えんしんに)とされるが、玉日姫と恵信尼が同一人物であるという説もある。親鸞とともに京都へは帰らず、結城で没したとされる。
城跡公園近くの「みかつきはし」は別にして、金光寺山門を見れたことには感動した。残念なのは、真ん中の和歌が削られていること。三首の和歌は何が書いてあるかわかっているので、消しても無駄なような気がする。真ん中だけというのがね・・・、気にならないことはない。たんなる嫌がらせだろうか・・・。
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年(元和2年)に死去した後、遺命に埋葬された場所が、現在の久能山東照宮。家康公の神廟は遺命より西を向いているのは有名な話である。
鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。構造は連郭式平山城。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張。八王子城と並び後北条氏の最重要拠点。
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。
1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。
米子城は、鳥取県米子市久米町にあった城。城郭構造は梯郭式平山城。別名は久米城・湊山金城。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁。のち鳥取藩の支城となった。城跡は国の史跡に指定されている。1603年(慶長8年)11月には米子城を舞台に「米子騒動」(横田騒動・中村騒動・米子城騒動とも言われる)が起きている。
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。
尾高城。鳥取県米子市尾高にある中世の城(平山城跡)。城郭構造は連郭式平山城。泉山城(いずみやまじょう)とも呼ばれる。戦国時代は西伯耆の要衝であり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となる。捕縛された山中鹿之助幸盛が下痢と偽り脱出した逸話も残る。