静御前伝説。源義経の愛妾、地方伝承・終焉の地などをまとめてみた。
静御前(しずかごぜん)は、白拍子で源義経の愛妾(側室)。母は白拍子の磯禅師。源頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させたとされる。静御前には、数々の地方伝承がある・・・。
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静御前(しずかごぜん)は、白拍子で源義経の愛妾(側室)。母は白拍子の磯禅師。源頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させたとされる。静御前には、数々の地方伝承がある・・・。
大野治房。母は大蔵卿局。兄は大野治長。兄弟とともに豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣では主戦派の中心人物の一人として指揮を執る。1649年(慶安2年)に生存説が流れたため、江戸幕府によって捜索が行われたとされる。
初(常高院)といえば、大坂冬の陣で阿茶局と和議をまとめることだろう。浅井三姉妹の一人。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)。妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。本名は浅井初(あざいはつ)。一般に「初」の呼び名で知られる。京極高次の正室。
塙団右衛門(直之)。加藤嘉明に出仕するまでは謎が多い。関ヶ原の戦い後は、加藤家を退去している。のち小早川秀秋・松平忠吉に仕える。福島正則にも仕えているが、「奉公構(ほうこうかまい)」により罷免される。浪人となり出家。大坂冬の陣が始まると豊臣方に浪人衆として参加。「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒く。
文英清韓(ぶんえいせいかん)。伊勢国の出身。臨済宗の僧。京都・東福寺の長老、南禅寺の長老。晩年は身柄を拘束され駿府で蟄居。清韓は漢詩文に秀で、京都・方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。あの「国家安康」の銘文である・・・。
織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。
千姫(天樹院)。父は徳川秀忠。母は継室・江(崇源院)。大坂夏の陣により夫・秀頼と別れる悲劇のヒロインのイメージが強い。そのイメージが強すぎるからか、本多忠刻の正室としての千姫は、あまり知らなかった。そして天寿を全うしている・・・。
真田幸昌よりも「真田大助」のほうが広く知られている印象がある。名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。生年については諸説あるが、生涯といえるほど長くなく若くして亡くなっている。真田大助は最期が若年であったことから、なにか物悲しくてなりません・・・。
真田信綱。父は真田幸隆。母は恭雲院(河原隆正の妹)。「武田二十四将」にも数えられる。官途は「左衛門尉」。これにより真田信繁(幸村)の官職「左衛門佐」の由来とされる。信綱のように剛勇になってほしいという弟・真田昌幸の期待があったといわれる。
大河ドラマ「真田丸」第37話「信之」で石田三成と大谷吉継の最期が回想シーンとして描かれるはずだ。はずだというのは第36話「勝負」で関ヶ原の戦いは「超高速関ヶ原」として描かれてしまったからである。二人の記事は、以前に書いているが、最期というテーマで書きたいと思う。