1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
静岡市葵区紺屋町の「徳川慶喜公屋敷跡」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
目次
徳川慶喜公屋敷跡を訪ねて
駿府城に行ったので、「徳川慶喜公屋敷跡」にも訪れた。
「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」の記事でも書いたが、駿府城でもらった地図にあったので行ってみた。
よって滞在時間は短く、写真もあまり撮影してないので御勘弁のほどを・・・。
最初に断っておくが、徳川慶喜公の謹慎の地ではない。
静岡での謹慎地は、あくまでも「宝台院」である。
徳川慶喜の謹慎・住居の流れ
徳川慶喜の謹慎と住居の流れを記述。
- 1868年(慶応4年)2月、徳川慶喜が上野の寛永寺大慈院において謹慎。勝海舟に事態収拾を一任、全権を委ねる。
- 1868年(慶応4年)4月11日午前3時、寛永寺大慈院を出て水戸へ向かう。弘道館の至善堂にて引き続き謹慎。
- 1868年(慶応4年)7月19日、水戸を出発。銚子から旧幕府軍艦蟠竜艦で清水港をめざす。
- 1868年(慶応4年)7月23日、清水港に上陸。東海道を通って宝台院に入る。謹慎は続く。
これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。
旧幕臣に会うことを避けていた慶喜公ですが、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、新門辰五郎らは常にお見舞いに参上していたようです。
- 1869年(明治2年)9月28日、戊辰戦争の終結。徳川慶喜の謹慎解除。
- 1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。約20年間、この地に居住。
その場所が、現在の料亭「浮月楼(ふげつろう)」である。
慶喜は政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
- 1897年(明治30年)11月、東京の巣鴨に転居。
- 1901年(明治34年)12月、小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居。
ここが終焉の地となり、現在は敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。
浮月楼
静岡市葵区紺屋町にある浮月楼(ふげつろう)は、四季折々の懐石料理を味わうことができる料亭。
東海の名園といわれる美しい庭、そして徳川慶喜公屋敷跡として有名です。浮月楼の名は、池に浮かぶ月の美しさに由来します。
浮月楼の浮殿(うきどの)では、当時の面影を残した見事な庭園を眺めながら、四季折々の懐石料理を楽しむことができます。
日本情緒あふれる庭園は、結婚式場、セレモニースペースとしても利用されています。
徳川慶喜公屋敷跡の所在地および交通アクセス
徳川慶喜公屋敷跡の所在地。徳川慶喜公屋敷跡のマップ等を掲載します。
所在地、交通アクセス等は、
- 住所:静岡県静岡市葵区紺屋町11-1
- TEL:054-252-0131
駿府城
「徳川慶喜公屋敷跡」からは駿府城が近い。
管理人の当初の目的は駿府城であった。もらった地図に、偶然あった「徳川慶喜公屋敷跡」を訪れた次第であります。
駿府城に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地
徳川慶喜公屋敷跡から「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」までは近い。
「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
久能山東照宮
せっかくなので「久能山東照宮」にも行ってきました。
「久能山東照宮」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
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まとめ
今回、時間がなかったので宝台院には行けていない。こうなってくると行きたくなってしまう(笑)。
慶喜公が趣味に生きた話は有名ですよね。
何気なく徳川慶喜公屋敷跡を訪ねてみたが、慶喜公がここで暮らしていたことを思うと、なんだか感慨深いものがある・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。