史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡
関東に在住する管理人が「史跡・小山評定跡」に行ってみた。慌ただしく大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」放送日の前日に訪れた。事前に調査しないで行ったので、隣の敷地に「小山御殿広場」があるのを知らなかった。徳川家にとっては、縁起の良い場所になり、歴史的にも重要な場所である。小山評定にも触れています。
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関東に在住する管理人が「史跡・小山評定跡」に行ってみた。慌ただしく大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」放送日の前日に訪れた。事前に調査しないで行ったので、隣の敷地に「小山御殿広場」があるのを知らなかった。徳川家にとっては、縁起の良い場所になり、歴史的にも重要な場所である。小山評定にも触れています。
加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。
徳川家康が征夷大将軍就任するまでに朝廷内ではスキャンダルが勃発した。結果、徳川家康は「源氏長者」を手に入れる。征夷大将軍が何かとクローズアップされるが管理人は「源氏長者」に注目している。家康以降の徳川将軍家の官位履歴一覧と「武家関白制」にも触れてみる。
木村重成。幼少期から秀頼の小姓として仕えたといわれる。知行は3千石。官位は正四位上・長門守。母の宮内卿局(右京大夫局の説あり)は豊臣秀頼の乳母。豊臣姓を下賜されている。真田丸も木村重成を取り上げるとはシブい!
徳川内府(だいふ)が上杉・会津征伐の留守中に治部殿は刑部殿を味方に引き入れ挙兵。真田家の方針は、会津征伐に従軍する振りをして家康を倒すことだった。しかし安房守より早くに豊臣方は決起し挙兵してしまった。そして安房守・伊豆守・左衛門佐の三人だけの会談が始まる。三人が出した答えとは・・・。
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。
大河ドラマ「真田丸」で徳川家康を「徳川内府(だいふ)」と呼んでいたので内大臣について調べてみた。内大臣の唐名は「内府(だいふ)」。太政官に置かれた令外官の一つ。江戸時代以降の内大臣について、そして「令外官」、徳川将軍家の官職についても触れてみる。
【真田丸】第34話「挙兵」の感想記事でも書いたが、石田三成(山本耕史)が加藤清正(新井浩文)に耳打ちした内容を掘り下げて考えてみる。真田丸での三成と清正の関係性は、今までのドラマの描かれ方と少し違う。もちろん対立はしているのだが、何かが違う。タイトルは、あえて佐吉と虎之助の名称を使ってみた。
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
西笑承兌。臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務める。諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。