駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
大御所と呼ばれた徳川家康の晩年の城「駿府城」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
目次
駿府城を訪ねて
画像は復元された東御門高麗門。管理人のイメージは駿府城っていえばのアングルの写真です。
鳥取県米子市の帰りに新静岡ICで新東名高速を降りた。そして一泊。これは当初の予定通り。
次の日には、駿府城・久能山東照宮を見て回る予定でいた。
ホテルへ向かう道を車で走っていて気づいたのだが、静岡の町ってキレイな十字路の交差点が少ない。
交差点でまた角度がつく。これは今川からの名残か、徳川家康が意図して整備したのか分からないが、意図した道路っぽい。
写真がないのは残念だが、地元の人や行ったことがある人ならわかってくれるはず・・・。
駿府城の概要
駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡(現在の静岡県静岡市葵区)にあった城である。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。
今回は、徳川家康以降の駿府城について書きます。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。
江戸時代には駿府藩・駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。
遺構は石垣・堀。再建造物は櫓・門。
1610年(慶長15年)再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清。地元の大棟梁・華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。
駿府城の天守
画像は坤櫓(ひつじさるやぐら)の前から撮影した富士山。
駿府城の天守は3度建てられた。
- 天正期天守(1573年~1592年または1589年(天正17年))-天守構造は不明。小天守があったという記録のみ。
- 慶長1期天守(1607年(慶長12年))-天守構造は不明。完成後まもなく焼失。資料が少ない。
- 慶長2期天守(1610年(慶長15年))-天守構造は7階。天守台は1896年(明治29年)まで現存。
天守は現存していない。
狩野探幽「日光東照社縁起」に天守の最上階から下3重目までの外観が描かれている。
駿府築城の様子を描いたものとされる「築城図屏風」(名古屋市博物館所蔵)に三重櫓を伴う重層な天守が描かれているが、近年では、金沢築城の様子であるという説が有力視されている。
駿府城の遺構
駿府城の遺構は石垣・堀とされる。
画像は駿府城の外堀。駿府城三ノ丸跡には、国・県・市の公共施設や国公私立教育施設が多数立地。
本当に公共施設などが多いです。実際に行くとわかるのですが・・・。
画像は東御門からの中堀。
内堀は、発掘・復元された南東の一部と中堀との間を結ぶ水路を除いて完全に埋められて消滅。
中堀と東辺以外の外堀は、ほぼ江戸期の姿を残す。
大手御門の虎口や北御門跡などが往時の姿をよく残している。残存する石垣に天下普請を物語る刻印を確認することができる。
駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある妙法華寺の奥書院として現存。駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。
現在の駿府城
画像は駿府城の二ノ丸御門跡。
画像は復元された坤櫓。
画像は駿府城本丸跡にそびえ立つ徳川家康公銅像。
駿府城といえばという写真だと思います。管理人は他に巽櫓・東御門あたりの画像が駿府城を連想させます。
画像は「東照公御遺訓」。徳川家康公銅像近くに位置します。
画像は「家康公お手植えのミカン」。柵から手を伸ばし、必死に撮影しました(笑)。
たしか「家康公お手植えのミカン」は久能山東照宮にもあったような気がします・・・。
画像は「行幸御野立所跡」。日付は昭和5年5月29日になってますので、昭和天皇行幸だと思われます。
画像は復元された東御門櫓門。奇跡的に誰もいないタイミングで撮影。
東御門近くの塀。狭間(さま)も僅かに見えるでしょうか。
画像は復元された東御門高麗門。駿府城っぽい写真の一枚ですよね。堀も一緒に撮影したかったので、このアングルに・・・。
画像は巽櫓。これまた駿府城っぽい写真の一枚。
天守台の発掘調査
2016年10月現在、天守台の発掘調査が行われている。
おそらく内堀と石垣だと思われます。
茶色のシートに覆われた下に何があるのか気になります・・・。
管理人が訪れた数日後に天守台の発掘調査が一般開放されたようです。
弥次喜多像
東御門から駿府城公園を出てみます。
すると「府中 弥次喜多像」があります。バックは巽櫓。
弥次喜多像は京都の三条大橋にもあるようです。
弥次さん喜多さん・・・、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公である弥次郎兵衛と喜多八のこと。
実在の人物ではありませんが、物語では府中出身という設定のようです。
弥次喜多像の前は「家康公の散歩道」といわれる遊歩道になってます。
大御所と呼ばれた徳川家康公も、この道を歩いたのでしょうか・・・。そう考えると感慨深いものがあります。
静岡御用邸跡
駿府城公園から少しだけ歩く。静岡市庁舎新館前のバス停前にある「静岡御用邸跡」の碑。
静岡御用邸の開設は1900年(明治33年)。
明治天皇が関西方面等に旅行される際には、現在より格段に交通事情が悪かったためか、しばしば宿泊されました。
- 1930年(昭和5年)-用途廃止。
- 1932年(昭和7年)-静岡市へ移管。永久保存の対象とされて大切に扱われてきたそうです。
駿府城の所在地および交通アクセス
駿府城公園の所在地。駿府城公園のマップ等を掲載します。
所在地、交通アクセス等は、
- 住所:静岡県静岡市葵区駿府城公園1−1
- TEL:054-221-1433
- JR東海道本線・東海道新幹線-静岡駅から徒歩約10分。
- 静岡鉄道静岡清水線-新静岡駅から徒歩約5分。
駿府城の歴史
14世紀に室町幕府の駿河守護・今川氏によって、この地には「今川館」が築かれ、今川領国支配の中心地となっていた。
今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行った。
16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消。武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなる。しかし武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡。駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。
安土桃山時代
- 1585年(天正13年)、 駿河国を支配した徳川家康が浜松城より居城を移して築城。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐後、徳川家康が関東に移封。中村一氏が大名として入城。
秀吉は甲府城に豊臣系大名・加藤光泰(のち浅野長政)を配置。関東の徳川家康を豊臣恩顧の大名で囲み「徳川家康包囲網」をひいた。
この包囲網は機能するはずだった。しかし・・・。
※中村一氏は豊臣家の三中老。一氏は関ヶ原の戦いを前に亡くなっているので米子城には入っていない。
この旅では、鳥取県米子市に行っており、米子城にも行っております。
関ヶ原の戦い後、論功により一氏の嫡子・中村一忠は伯耆・17万5000石を領し米子城に入城。初代米子藩主となる。
何も考えてなく、米子城・駿府城に行きましたが、これも何かの縁でしょうか・・・。
大御所政治時代
- 1601年(慶長6年)、家康の異母弟・内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
- 1606年(慶長11年)、内藤信成が長浜城主に移封。
- 1607年(慶長12年)12月、失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。ただちに再建開始。
- 1608年(慶長13年)、本丸御殿・天守等が完成。
- 1609年(慶長14年)、家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。名目上は駿府藩50万石。
- 1616年(元和2年)、徳川家康が死去。享年75。
家康没後の江戸時代
- 1619年(元和5年)、頼宣が和歌山城主に移封。
- 1624年(寛永元年)、徳川秀忠の第二子・徳川忠長(駿河大納言)が駿府城主となる。
- 1631年(寛永8年)、忠長が乱心、兄・徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
- 1632年(寛永9年)、忠長が高崎城で自刃。以後、駿府は江戸幕府直轄(天領)となり、駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれる。
- 1635年(寛永12年)、城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。
- 1638年(寛永15年)、御殿・櫓・城門等が再建。城主がいないため天守は再建されず。
近現代
- 1868年(慶応4年)、江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。養嗣子・田安亀之助(徳川家達)が駿府藩主となり駿府城に移る。
- 1869年(明治2年)、江戸が東京に、駿府が静岡に改名。廃藩置県により、静岡藩(駿府藩から改称)知県事・徳川家達が東京に移る。
- 1891年(明治24年)、静岡市に払い下げられ、公園(中央公園)となる。
- 1896年(明治29年)、歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設は凡て取り壊される。
- 1949年(昭和24年)、大蔵省より静岡市に再度払い下げ。公園として整備。
- 1951年(昭和26年)、公園の名称を公募。「駿府公園」と命名。
- 1989年(平成元年)、巽櫓復元、資料館として公開。
- 1996年(平成8年)、東御門復元、資料館として公開。
- 2006年(平成18年)、日本100名城(41番)に選定。
- 2009年(平成21年)8月11日午前5時7分、駿河湾沖を震源とする駿河湾地震(M6.5)により、中堀や外堀など複数個所で石垣の一部が崩壊。
- 2012年(平成24年)4月1日、駿府公園を「駿府城公園」に改称。
- 2014年(平成26年)4月2日、二ノ丸坤櫓復元、資料館として公開。
- 2015年(平成27年)9月、徳川家康の400回忌を記念した「駿府天下泰平まつり」が開催。
静岡駅前の銅像
駿府城公園から徒歩10分。徳川家康公・竹千代君の銅像を目指す。場所は静岡駅前。
画像は「徳川家康公之像」。背景には三つ葉葵、どう考えても、このアングルを意識してるとしか思えない(笑)。
徳川家康は今川市の人質であった少年期、「五カ国時代」といわれた壮年期、「大御所時代」の老年期と生涯で三度駿府に居住している。
節目節目のときであり、駿府は家康公にとって大事な場所であった。
画像は「竹千代君像」。大御所と呼ばれた家康公にも、こんなカワイイ時代があったんですね(笑)。
「竹千代君像」の説明には徳川恒孝氏と小和田哲男先生の名前が・・・。
お二人の名前は、「徳川家康公之像」の説明にもありました。
大御所の町
画像は宿泊したホテルのロビーにて撮影。紙細工の「駿府城」「久能山東照宮」です。
静岡駅に行く途中、こんなものが・・・。有名な「しかみ像」です。やはり静岡は大御所の街だということを感じました。
極めつけはこれ。「竹千代くん」と命名されたバス。ビックリしました(笑)。
ホビーのまち静岡
画像は宿泊したホテルのロビーにて撮影。
そうなんです。静岡は「ホビーのまち静岡」なんです。
- 株式会社タミヤ
- バンダイ
- 株式会社青島文化教材社
- 株式会社ハセガワ
- 有限会社エムエムピー
などの会社があります。
真田丸での駿府城
この画像は東御門を撮影してます。もっとひいて巽櫓までをおさめ、CGで天守を合成できれば、大河ドラマ「真田丸」で登場する駿府城になると思います。
記事を書いていて気づきました。今度いつ行けるかわかりませんが、そのアングルの写真も撮影したいものです・・・(笑)。
西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地
駿府城公園から「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」までは近い。
管理人の当初の目的は駿府城であった。もらった地図に、偶然あった「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」を訪れた次第であります。
「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
徳川慶喜公屋敷跡
駿府城公園から「徳川慶喜公屋敷跡」までは近い。
「徳川慶喜公屋敷跡」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
久能山東照宮
せっかくなので「久能山東照宮」にも行ってきました。
「久能山東照宮」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
遺構は、ほとんど残ってませんが、やはり徳川家康ゆかりの城なんで感慨深いです!
今回は堀に沿って、ぐるっと歩いてないので、次への宿題とします・・・。
2016年10月現在、天守台の発掘調査も行われていますので、次回はまた違った駿府城が見れることを期待してます!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。