弘道館。正庁・至善堂に徳川慶喜謹慎。「大日本史」の影響で水戸学の舞台

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この記事の所要時間: 711(文字数:4,312文字)

弘道館は幕末に水戸藩主・徳川斉昭によって建てられた藩校。所在地は水戸城の三の丸内。正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定。徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台。明治維新の際には、弘道館戦争(弘道館の戦い)が勃発している。

現存する正門には、生々しい銃痕が残っている。

今回は弘道館についての記事投稿です。

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弘道館を訪れて

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幕末の尊王攘夷思想に多大な影響を与えた水戸学。弘道館は水戸学の舞台であった。幕末の志士の何人かが水戸を訪れているという事実がある。

そして一時期、最後の征夷大将軍・徳川慶喜が弘道館の正庁・至善堂で謹慎している。

管理人は、幕末と水戸学の匂いを感じるために、弘道館を訪れた・・・

弘道館

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弘道館(こうどうかん)は、江戸時代後期に日本の常陸国水戸藩に作られた藩校。所在地は、茨城県水戸市三の丸1丁目6番内。

第9代水戸藩主の徳川斉昭(諡号:烈公)によって水戸城三の丸内に作られた。

文化財とされているのは、保存されている部分である旧弘道館(きゅうこうどうかん)であり、国の特別史跡に指定されている。その中の正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定されている。

弘道館の概要

武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても行われていた。

第2代水戸藩主・徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。

学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。

藩学出席強制日数という形式的な基準を設定。

文館への入学には一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。

家格と実力が合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われた。家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた。

弘道館の歴史

  • 1841(天保12年)年7月に完成。
  • 1841(天保12年)年9月15日(8月1日)に仮開館。
  • 1857(安政4年)年5月31日(5月9日)に本開館。

水戸藩第9代藩主・徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた。弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷地であった。

水戸城。水戸徳川家の居城、現存の建造物・薬医門は水戸第一高等学校に
水戸城の別名は馬場城・水府城。築城年は建久年間(1190年~1198年)、築城主は馬場資幹(ばばすけもと)。主な城主-大掾氏(馬場氏)・江戸氏・佐竹氏・徳川氏。徳川御三家の水戸徳川家の居城。1871年(明治4年)、廃藩置県により水戸城は廃城。天守相当の御三階櫓は、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失。現在まで再建なし。

初代教授頭取

  • 会沢正志斎(あいざわせいしさい)
  • 青山拙斎(あおやませっさい)。青山延于(あおやまのぶゆき)とも

※会沢正志斎(あいざわせいしさい)は江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。

※青山拙斎(あおやませっさい)は江戸時代の儒学者で水戸藩士。江戸彰考館総裁。弘道館初代教授頭取(総教)。「大日本史」の校訂・出版の作業を推進。字は子世、通称は量介(量助)、号は拙斎、雲竜。

建造は戸田蓬軒。経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。

※戸田忠太夫(とだちゅうだゆう)は日本の幕末(江戸時代・幕末)における水戸藩家老。尊王派の志士として知られる。水戸藩主戸田家第7代当主。家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より「忠太夫」の名を賜る。幼名は亀之介(かめのすけ)。通称は銀次郎(ぎんじろう)。諱は忠敞(ただあきら)。号としては蓬軒(ほうけん)が知られ、ほか清洲がある。

※安島帯刀(あじまたてわき)・安島信立(あじまのぶたつ)は幕末に活躍した水戸藩家老。安政の大獄で切腹を命じられた。維新後、靖国神社・護国神社・回天神社に合祀された。

明治維新の際の「弘道館戦争(弘道館の戦い)」については後ほど。

弘道館戦争と徳川慶喜謹慎

明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。

  • 1868年(慶応4年)4月、謹慎中の徳川慶喜が、水戸に引き移り、弘道館の至善堂に入った。引き続き謹慎。
  • 1868年(慶応4年)7月、慶喜が静岡に移った。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

静岡に移った理由としては、水戸藩主・徳川慶篤が病没し、紛争に担ぎ上げられることが予測されたため。

  • 1868年11月14・15日(明治元年10月1・2日)、弘道館戦争。会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となる。
  • 1872(明治5年)年12月8日、弘道館閉鎖。太政官布告により公園となった。

弘道館戦争では、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した。

弘道館の現状

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現在の敷地は、すべて「都市公園法」(昭和31年法律第79号)に基づく「都市公園」であり、「茨城県都市公園条例」(昭和32年茨城県条例第26号)において、弘道館公園とされている。

文化財とされているのは、保存されている部分である旧弘道館(きゅうこうどうかん)であり、国の特別史跡に指定されている。その中の正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定されている。

2011年3月11日発生の東日本大震災で甚大な被害を受けた。このうち「弘道館記」を刻む弘道館記碑は2013年に修復が完了したが、その際、1953年修復時に本体背面に施されたコンクリートが除去されてそれ以前の姿にほぼ復元された。

弘道館内施設

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画像は正門。正門は本瓦葺四脚門。柱などには、1868(明治元年)年10月の弘道館戦争の折に、城側から撃たれたと思われる弾痕が残っている。

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画像は正庁(学校御殿)。正庁(学校御殿)は弘道館の管理棟。正庁の北東に位置する四室は至善堂と呼ばれた。至善堂は徳川慶喜が謹慎した場所。

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画像は南庭に配された武術訓練のための「対試場」。

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画像は八卦堂。八卦堂は「弘道館記」を刻んだ石碑を納めた覆堂。銅板葺きの八角堂。

  • 1945(昭和20年)年、水戸空襲により焼失。
  • 1953(昭和28年)年、再建。

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画像は学生警鐘。学生警鐘は、弘道館内に時刻を知らせるものとして利用されていた。

鐘の背面には

「物学ぶ 人の為にと清かにも 暁告ぐる 鐘のこえかな」

という徳川斉昭(烈公)の直筆がある。

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画像は鹿島神社。

  • 1857(安政4年)年、常陸一の宮である鹿島神宮から分祀。
  • 1945(昭和20年)年、水戸空襲により社殿焼失。
  • 1974(昭和49年)年、伊勢神宮の式年遷宮の際に旧殿が譲渡。翌年に移築。

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画像は種梅記碑。斉昭の自撰自筆による、偕楽園や弘道館など水戸に多くの梅を植えた由来を記したもの。八卦堂の南側。

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画像は要石歌碑。鹿島神社に近い場所に設置され、徳川斉昭による歌が刻まれている。

歌の内容は

「行く末も踏みなたかへそあきつ島 大和の道そ要なりける」(原文「行末毛 富美奈 太賀幣会 蜻島 大和乃道存 要 那里家流」)

と、日本人の進む道について歌っている。石碑の写しは弘道館内の至善堂に掛けられている。

弘道館の所在地および交通アクセス

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  • 所在地:〒310-0011 茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
  • 営業終了時間:17:00
  • 電話:029-231-4725
  • JR常磐線・水戸駅から徒歩約8分。

水戸城の三の丸に位置するので、水戸城址も見学してはどうでしょうか。

管理人は車で行ったのですが、弘道館の駐車場に駐車しました。そんなに多くの台数は止められなかったと思います。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

弘道館 – Wikipedia

まとめ

水戸藩主・徳川斉昭は時の大老・井伊直弼と対立。斉昭は蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。彦根藩士による暗殺も疑われたが、死因は心筋梗塞のようである。

徳川御三家でありながら、水戸学は多くの他藩の勤王の志士に影響を与えた。尊王攘夷思想は、倒幕の大きな原動力となったところが、歴史の面白いところである。

正門の銃痕は、幕末の匂いを生々しく感じた・・・

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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