徳川将軍家の官位履歴一覧と徳川家康の征夷大将軍就任

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徳川家康が征夷大将軍就任するまでに朝廷内ではスキャンダルが勃発した。結果、徳川家康は「源氏長者」を手に入れる。征夷大将軍が何かとクローズアップされるが管理人は「源氏長者」に注目している。家康以降の徳川将軍家の官位履歴一覧と「武家関白制」にも触れてみる。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

徳川家康の征夷大将軍就任までと徳川将軍家の官位履歴一覧、そして豊臣秀吉が目指した「武家関白制」についても書きます。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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徳川家康の征夷大将軍就任

1603年(慶長8年)2月12日、徳川家康に右大臣、征夷大将軍・源氏長者宣下。

これにより家康は江戸に幕府を開く。

これより少しだけ遡る。

源氏長者へのキッカケ

太閤・豊臣秀吉の死の直後、朝廷内でスキャンダルが勃発。

1599年(慶長4年)、久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし・長橋局)の密通の風聞がたった。

久我敦通・通世親子は、後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われ京都を追放された。

※勾当内侍(こうとうのないし)とは、律令制度下における宮中の役所・内侍司の判官相当の役職である「掌侍」の筆頭。「長橋局」ともいわれる。女性。

久我敦通の久我家は村上源氏で、この時期、代々「源氏長者」となっていた。家格は清華家。

「関白」は世襲ではないが、「征夷大将軍」「源氏長者」は世襲の前例がある。それに関白職に就任できるのは藤原氏と豊臣氏。五摂家を相手にするよりはと考えても不思議ではない・・・。ということを付け加えておく。

久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。

徳川将軍家の官位履歴一覧

徳川家葵紋

家康が征夷大将軍就任するまでの出来事を記述した。

それでは徳川家康を含む徳川将軍家の官位履歴一覧である。

徳川家康

徳川家康の官位履歴。

  • 1566年(永禄9年)12月29日、従五位下・三河守。「徳川」に改姓。
  • 1568年(永禄11年)1月11日、左京大夫。
  • 1571年(元亀2年)1月5日、従五位上。
  • 1571年(元亀2年)1月11日、侍従。
  • 1574年(天正2年)1月5日、正五位下。
  • 1577年(天正5年)12月10日、従四位下。
  • 1577年(天正5年)12月29日、右近衛権少将。
  • 1580年(天正8年)1月5日、従四位上。

  • 1583年(天正11年)10月5日、正四位下。
  • 1583年(天正11年)10月7日、左近衛権中将。
  • 1584年(天正12年)2月27日、従三位・参議。
  • 1586年(天正14年)10月4日、権中納言。

  • 1586年(天正14年)10月27日、大坂城にて豊臣秀吉に臣従。
  • 1586年(天正14年)11月5日、正三位。
  • 1587年(天正15年)8月8日、従二位・権大納言。
  • 1587年(天正15年)12月28日、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。
  • 1588年(天正16年)1月13日までに、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
  • 1592年(天正20年)9月16日、豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
  • 1596年(慶長元年)5月8日、正二位・内大臣。

  • 1602年(慶長7年)1月6日、従一位。
  • 1603年(慶長8年)2月12日、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。
  • 1603年(慶長8年)10月16日、右大臣辞任。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、征夷大将軍辞職。源氏長者・奨学院別当は留任。
  • 1614年(慶長19年)3月8日、朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
  • 1616年(元和2年)3月17日、太政大臣。
  • 1616年(元和2年)4月17日、死去。
  • 1617年(元和3年)3月9日、贈正一位。

徳川家康は若い頃、無位ではあるが「蔵人佐」を名乗っている。

家康は最初「藤原氏」を名乗り、のち「源氏」を名乗ります。豊臣政権下では「豊臣氏」を名乗り、秀吉の死後は「源氏」に復姓している。

徳川秀忠

徳川秀忠の官位履歴。

  • 1587年(天正15年)8月8日、従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
  • 1588年(天正16年)1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を辞す。
  • 1590年(天正18年)1月15日、元服し秀忠と名乗る。
  • 1590年(天正18年)12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 1591年(天正19年)、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。

  • 1591年(天正19年)11月8日、参議に補任。右近衛権中将を兼帯。
  • 1592年(文禄元年)5月9日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
  • 1594年(文禄3年)2月13日、権中納言を辞任。
  • 1601年(慶長6年)3月28日、権大納言に転任。
  • 1602年(慶長7年)1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。

  • 1603年(慶長8年)4月16日、源朝臣秀忠として右近衛大将を兼任。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、源朝臣秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1605年(慶長10年)5月1日、征夷大将軍宣下。淳和院別当宣旨(源氏長者宣旨はなし)。
  • 1606年(慶長11年)、内大臣と右近衛大将を辞任。
  • 1614年(慶長19年)3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。

  • 1623年(元和9年)7月27日、右大臣を辞任。
  • 1626年(寛永3年)8月19日、太政大臣に転任。
  • 1632年(寛永9年)1月24日、薨去。
  • 1632年(寛永9年)2月10日、贈正一位。

1601年(慶長6年)、1602年(慶長7年)頃までは「豊臣朝臣秀忠」として任官?

賛否両論はあるが、歴代の徳川将軍で唯一源氏長者になれなかったとされる。家康の死後に奨学院別当宣旨・源氏長者宣旨とも言われるが、少なくとも歴代の徳川将軍で征夷大将軍と源氏長者の宣下が同時ではなかったことは事実である。

※源氏長者は奨学院別当だけでも条件は満たす。前述のとおり家康は征夷大将軍は辞任したが、源氏長者・奨学院別当は留任した。

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

徳川家光

徳川家光の官位履歴。

  • 1620年(元和6年)1月5日、正三位に叙す。
  • 1620年(元和6年)9月7日、従二位に昇叙し、権大納言に任官。元服し、家光と名乗る。
  • 1623年(元和9年)3月5日、右近衛大将に任官し右馬寮御監を兼任。
  • 1623年(元和9年)7月27日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。

  • 1626年(寛永3年)8月19日、従一位に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。
  • 1634年(寛永11年)7月11日、太政大臣転任を固辞。
  • 1651年(慶安4年)4月20日、薨去。贈正一位太政大臣。

徳川家綱

徳川家綱の官位履歴。

  • 1645年(正保2年)4月23日、元服。家綱を名乗り、従二位に叙し、権大納言に任官。
  • 1651年(慶安4年)8月18日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1653年(承応2年)7月10日(「幕府祚胤伝」では8月12日)、右大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1680年(延宝8年)5月8日、薨去。
  • 1680年(延宝8年)5月21日、贈正一位太政大臣。

徳川綱吉

徳川綱吉の官位履歴。

  • 1653年(承応2年)8月12日、元服。従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。
  • 1653年(承応2年)8月17日、正三位に昇叙。
  • 1661年(寛文元年)12月28日、参議補任。
  • 1680年(延宝8年)5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
  • 1680年(延宝8年)8月21日、正二位・内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。

  • 1705年(宝永2年)3月5日、右大臣。
  • 1709年(宝永6年)1月10日、薨去。
  • 1709年(宝永6年)1月23日、贈正一位太政大臣。

徳川家宣

徳川家宣の官位履歴。

  • 1670年(寛文10年)7月9日、松平虎松を称する。それ以前は新見左近。
  • 1677年(延宝4年)12月12日、従三位に叙し、左近衛権中将に任官。左近衛将監を兼任。
  • 1677年(延宝4年)12月12日、元服。伯父である将軍・家綱の1字を賜り、綱豊と名乗る。
  • 1678年(延宝6年)10月25日、甲斐国府中城主襲封。
  • 1680年(延宝8年)8月18日、参議に補任。
  • 1680年(延宝8年)9月6日、正三位に昇叙。参議如元。

  • 1691年(元禄3年)12月15日、権中納言に転任。
  • 1704年(宝永元年)12月5日、将軍後継者となる。
  • 1705年(宝永2年)3月5日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。家宣と名を改める。
  • 1709年(宝永6年)5月1日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1712年(正徳2年)10月14日、薨去。
  • 1712年(正徳2年)11月3日、贈正一位太政大臣。

徳川家継

徳川家継の官位履歴。

  • 1712年(正徳2年)12月28日、正二位、権大納言に叙任。
  • 1713年(正徳3年)3月26日、元服し、家継と名乗る。
  • 1713年(正徳3年)4月2日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1716年(正徳6年)4月30日、薨去。
  • 1716年(正徳6年)5月12日、贈正一位、太政大臣。

徳川吉宗

徳川吉宗の官位履歴。

  • 1684年(貞享元年)10月21日、紀州徳川家藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
  • 1696年(元禄9年)12月11日、従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任官。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。
  • 1697年(元禄10年)4月11日、五代将軍・綱吉が紀州藩邸を訪れ、越前葛野藩3万石藩主となる(のち1万石加増)。
  • 1705年(宝永2年)10月6日、紀州徳川家5代藩主就任。
  • 1705年(宝永2年)12月1日、従三位・左近衛権中将に昇叙転任。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。

  • 1706年(宝永3年)11月26日、参議に補任し、左近衛権中将如元。
  • 1707年(宝永4年)12月18日、権中納言に転任。
  • 1716年(正徳6年)4月30日、将軍後見役就任。
  • 1716年(享保元年)7月13日、正二位に昇叙し、権大納言に転任。
  • 1716年(享保元年)7月18日、征夷大将軍・源氏長者宣下。内大臣兼右近衛大将に転任。

  • 1742年(寛保元年)8月7日、右大臣に転任。
  • 1745年(延享2年)9月25日、征夷大将軍辞職。
  • 1751年(寛延4年)6月20日、薨去。
  • 1751年(寛延4年)閏6月10日、贈正一位太政大臣。

徳川家重

徳川家重の官位履歴。

  • 1724年(享保9年)11月15日、将軍後継者となる。
  • 1725年(享保10年)4月9日、従二位・権大納言に叙任。元服して「家重」と名乗る。
  • 1741年(寛保元年)8月7日、右近衛大将を兼任。
  • 1745年(延享2年)11月2日、正二位・内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1760年(宝暦10年)2月4日、右大臣に転任。

  • 1760年(宝暦10年)4月1日、征夷大将軍を辞す。
  • 1761年(宝暦11年)6月12日、薨去。
  • 1761年(宝暦11年)7月24日、贈正一位太政大臣。

徳川家治

徳川家治の官位履歴。

  • 1741年(寛保元年)8月12日、元服し「家治」を名乗る、従二位・権大納言に叙任。
  • 1760年(宝暦10年)2月4日、右近衛大将を兼任。
  • 1760年(宝暦10年)9月2日、正二位・内大臣に昇叙転任、右近衛大将の兼任は元の如し、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1780年(安永9年)9月4日、右大臣に転任、右近衛大将の兼任は元の如し。
  • 1786年(天明6年)9月8日、薨去。
  • 1786年(天明6年)9月22日、贈正一位太政大臣。

徳川家斉

11代将軍徳川家斉とは?スペシャルドラマ「大奥」での上様,オットセイ将軍

徳川家斉の官位履歴。

  • 1781年(天明元年)閏5月18日、将軍後継者となる。
  • 1782年(天明2年)4月3日、元服し、「家斉」と名乗る。従二位・権大納言に叙任。
  • 1787年(天明7年)4月15日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1816年(文化13年)4月2日、右大臣に転任。右近衛大将の兼任元の如し。
  • 1822年(文政5年)2月6日、従一位・左大臣に昇叙転任し、左近衛大将を兼任。
  • 1827年(文政10年)2月16日、太政大臣に転任。

「オットセイ将軍」とも呼ばれる。

11代将軍徳川家斉。藤原氏にあらずして位人臣を極め、大奥をフル活用
江戸幕府の11代将軍徳川家斉について。管理人の印象は、享楽的な暮らしぶりを好み、幕政をかえりみず、子沢山の「オットセイ将軍」のイメージ。征夷大将軍在位は50年と長い。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満・豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もあるようだが。。

徳川家慶

徳川家慶の官位履歴。

  • 1797年(寛政9年)3月1日、従二位・権大納言に叙任。元服し、「家慶」を名乗る。
  • 1816年(文化13年)4月2日、右近衛大将を兼任。
  • 1822年(文政5年)3月5日、正二位・内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し。
  • 1827年(文政10年)3月18日、従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将如元。
  • 1837年(天保8年)9月2日、左大臣に転任し、左近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。

  • 1853年(嘉永6年)6月22日、薨去。
  • 1853年(嘉永6年)8月21日、贈正一位太政大臣。

将軍継嗣の段階で従一位に叙せられたのは徳川将軍家の中で初出。

また、将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事。

徳川家定

徳川家定の官位履歴。

  • 1828年(文政11年)4月4日、元服。「家祥」を名乗り、従二位・権大納言に叙任。
  • 1828年(文政11年)4月4日、さらに正二位に昇叙。権大納言は如元。
  • 1837年(天保8年)9月2日、 従一位に昇叙し、右近衛大将を兼任。
  • 1853年(嘉永6年)10月23日、内大臣に転任し、右近衛大将の兼任如元。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1853年(嘉永6年)11月23日、「家定」と名を改める。
  • 1858年(安政5年)7月6日、薨去。その後、贈正一位太政大臣。

徳川家茂

徳川家茂の官位履歴。

  • 1846年(弘化3年)閏5月24日、徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)で生まれる。
  • 1847年(弘化4年)4月22日、紀州藩主・徳川斉彊の養子となる。
  • 1849年(嘉永2年)閏4月2日、紀州藩主となる。
  • 1851年(嘉永4年)10月9日、元服。慶福と名乗り、常陸介に任官。
  • 1851年(嘉永4年)10月9日、従三位に叙位。左近衛権中将に転任。

  • 1853年(嘉永6年)10月23日、徳川家定、第13代将軍に就任。
  • 1855年(安政2年)12月15日、参議に補任。
  • 1858年(安政5年)6月20日、将軍家定の世子となる。
  • 1858年(安政5年)10月24日、正二位・権大納言に昇叙転任。
  • 1858年(安政5年)10月25日、第14代将軍に就任。名を「家茂」と改めた。内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。併せて源氏長者宣下。

  • 1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変。大老井伊直弼、暗殺される。
  • 1862年(文久2年)2月11日、仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹・和宮と結婚。
  • 1863年(文久3年)3月4日、朝廷の攘夷実施の求めに応じて、第3代将軍・徳川家光以来となる上洛。
  • 1864年(文久4年/元治元年)1月15日、2度目の上洛。
  • 1864年(文久4年/元治元年)1月21日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。右近衛大将如元。

  • 1864年(元治元年)8月2日、第1次長州征伐。
  • 1865年(慶応元年)閏5月22日、第2次長州征伐のため3度目の上洛。以後、死まで大坂城に滞在。
  • 1865年(慶応元年)10月1日、朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表(7日、正式に撤回)。
  • 1866年(慶応2年)6月7日、長幕開戦。
  • 1866年(慶応2年)7月20日、大坂城で脚気衝心のため薨去。享年21(満20歳没)。贈正一位太政大臣。

徳川慶喜

徳川慶喜の官位履歴。

  • 1847年(弘化4年)9月1日、一橋家を相続。
  • 1847年(弘化4年)12月1日、「慶喜」に改名。従三位・左近衛権中将兼刑部卿叙任。
  • 1855年(安政2年)12月3日、一条忠香の養女・美賀と結婚。参議に補任。
  • 1857年(安政4年)、徳川家定の後継問題で有力候補となる。
  • 1859年(安政6年)8月27日、安政の大獄において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。

  • 1860年(万延元年)9月4日、隠居謹慎蟄居解除。
  • 1862年(文久2年)7月6日、一橋家を再相続。(勅命により)将軍後見職就任。
  • 1862年(文久2年)11月1日、権中納言に転任。
  • 1863年(文久3年)12月、朝議参預就任。
  • 1864年(元治元年)3月9日、朝議参預辞任。

  • 1864年(元治元年)3月25日、将軍後見職辞任。禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮転職。禁門の変では、抗戦の指揮をとった。
  • 1865年(慶応元年)10月12日、従二位・権大納言昇叙転任を固辞。
  • 1866年(慶応2年)7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
  • 1866年(慶応2年)8月20日、徳川宗家相続。
  • 1866年(慶応2年)12月5日、正二位・権大納言兼右近衛大将に叙任。征夷大将軍就任。

  • 1867年(慶応3年)9月21日、内大臣転任。右近衛大将如元。
  • 1867年(慶応3年)10月14日、大政奉還。
  • 1867年(慶応3年)12月9日、征夷大将軍職辞職。
  • 1868年(慶応4年)4月11日、解官。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

徳川将軍家が嫌った官職

そんな徳川将軍家も「左大臣兼右近衛大将(右大将)」の官職は忌み嫌った。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

徳川将軍家が左大臣兼右近衛大将(右大将)を嫌った理由
源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。

一方で「権大納言兼右近衛大将」は頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)とされた。

権大納言兼右近衛大将。頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)となる
源頼朝が武家の棟梁として権大納言兼右近衛大将に任官して以来、武家にとっては嘉例(吉例)となった。近衛大将の唐名は「幕府」であることから、征夷大将軍と同様に近衛大将は重要視された。特に徳川家康は強く意識していたと思う。

武家関白制

五七桐,画像

最後に豊臣秀吉が目指した「武家関白制」について。

秀吉は、関白を公家・藤原氏に代わって武家・豊臣氏による世襲とし、これを征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」と位置づけることで、全国の公家と武士を一括して統率しようとしたのである。

いわゆる「武家関白制」である。

「征夷大将軍」は朝廷の令外官の一つ。「関白」も令外官の一つではあるが、事実上の最高職。「関白」は五摂家といわれる藤原氏しか就任できない。

※五摂家(ごせっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。五摂家筆頭は近衛家といわれる。

  • 1585年-天正13年7月-近衛前久の猶子となる、藤原改姓
  • 1585年-天正13年7月11日-従一位・関白宣下、内大臣如元

秀吉は同時に「藤氏長者」にもなっている。五摂家より藤氏長者も取り上げ、名実ともに公家社会の頂点に立った。

のちに秀吉は後陽成天皇より「豊臣」を賜る。おそらく「豊氏長者」の宣旨も・・・。

関白職は、秀吉の養子・豊臣秀次に譲られた。狙いどおり豊臣氏の世襲なる。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

明治政府により氏制度は廃止されるが、「豊臣」は最後に創設された氏となった。

これは、武家として初めての関白就任と並び大金字塔といえるだろう。

太閤・豊臣秀吉の死後

その後、豊臣秀次は「豊臣秀次事件」により切腹。関白職は、しばらく空位となる。

それと秀吉は武家に官位を乱発したため官位が足りなくなり、おのずと公家ははじき出される形となった。

摂関家・清華家などの公家も例外ではなかった。

豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。

秀吉の死に際しては、官職の最高位は内大臣の徳川家康であるという自体に陥っている。

「心の病」により左大臣・近衛信輔は職を辞していて、右大臣・菊亭晴季は豊臣秀次事件に連座したとして越後国に流罪のためであった。

新しい大臣を置かなったのは豊臣秀頼のためであると思う。

徳川内府(だいふ)により「内大臣」「令外官(りょうげのかん)」調査
大河ドラマ「真田丸」で徳川家康を「徳川内府(だいふ)」と呼んでいたので内大臣について調べてみた。内大臣の唐名は「内府(だいふ)」。太政官に置かれた令外官の一つ。江戸時代以降の内大臣について、そして「令外官」、徳川将軍家の官職についても触れてみる。
菊亭晴季(今出川晴季)。豊臣政権に関与し、娘・一の台は秀次の正室
菊亭晴季(今出川晴季)。羽柴秀吉に関白任官をすすめて豊臣政権と密接な関係を築いた。官位は従一位・右大臣。娘・一の台は豊臣秀次の正室。豊臣秀次事件に連座したとして越後に流罪となるが、徳川家康のとりなしにより右大臣に復職している。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

秀吉と家康の比較

ここで秀吉と家康を比較したいと思う。

秀吉は関白・藤氏長者になることで武家・公家を掌握し、天下人となった。

家康は征夷大将軍・源氏長者になることで武家・公家を掌握し、天下人となったとされる。

細かいことだが、家康は藤氏長者になっていないので、公家を掌握しきれていない。武家官位などを用い公家と共存する道を選んだ。

もちろん禁中並公家諸法度などで朝廷を統制していることには変わりないのだが・・・。

足利義満と同じ「日本国王」パターンである。

この観点からは、家康は秀吉を超えることはできていない・・・。

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まとめ

たまに秀吉は征夷大将軍を諦めたから、関白を目指したみたいに言われる時がある。

しかし考えてみてほしい、関白と征夷大将軍では雲泥の差がある。皆さんも知っての通り関白のほうが上位だ。

何かの権威が欲しいと思っていた時に、偶発的に「関白相論」が起きた。気がついたら関白就任も見えてきた。

武家にとっては史上初の武家関白。

秀吉は征夷大将軍には目もくれないで関白を目指した。

根拠はないが、管理人はそう思っている。

結果、秀吉は史上初の武家関白となる。きっと満足したに違いない。

主に徳川将軍家のことを書こうと思いましたが、秀吉でまとめたことをお許し下さい・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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