一般的には徳川御三家が尾張、紀州、水戸の三家、徳川御三卿は田安家、一橋家、清水家の三家である。御三家は親藩のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。御三家、御三卿を調べながら、御三家、御三卿から征夷大将軍に就任した人物の記事投稿をしてみたいと思います。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。
それではいってみよう!
徳川御三家
一般的である尾張、紀州、水戸を徳川御三家として記事を書く。。
藩祖は尾張が徳川義直、紀伊が徳川頼宣、水戸が徳川頼房。三人とも徳川家康の息子である。徳川義直が家康九男、徳川頼宣が家康十男、徳川頼房が家康十一男。
石高は尾張が62万石、紀州が56万石、水戸が35万石。官位は尾張、紀州の初叙任は従三位宰相、極官が従二位大納言。水戸の初叙任は従三位中将、極官が従三位中納言である。
徳川御三家の呼び名の変遷
江戸初期は、徳川将軍家の徳川宗家、尾張徳川家、紀州徳川家を御三家と呼ぶこともあった。また尾張家、紀州家、駿河徳川家(徳川秀忠の三男徳川忠長)の大納言家を御三家と呼ぶこともあった。
徳川忠長って人は「駿河大納言」と呼ばれ、3代将軍徳川家光の弟です。しかし改易後、自害させられます。よって駿河徳川家は消滅。。
水戸家は尾張、紀州と較べるとやや家格が劣ると見られていた。官位も極官で従三位中納言ですね~。。大納言じゃありません(笑)。水戸黄門の家です!!
ほか将軍家の分家としては、3代将軍家光の子を分封した甲府徳川家(徳川綱重、綱豊の2代、松平左馬頭家)。館林徳川家(徳川綱吉、松平右馬頭家)が、石高・家格ともに匹敵する家として存在した。
しかし家康の子(秀忠の兄)結城秀康を祖とする越前松平家、秀忠の子(家光の弟)保科正之を祖とする会津松平家などは徳川姓を許されていない。
館林綱吉が5代将軍となり、甲府綱豊が6代将軍(家宣と改名)として徳川宗家を継ぎ、これらの徳川家が消滅したため、尾張、紀州、水戸の三家を御三家と呼ぶことが定着。
徳川吉宗
最初の御三家からの征夷大将軍就任です。紀州徳川家藩主。7代将軍家継が8歳で死去したため宗家は断絶し、8代将軍には紀州徳川家の徳川吉宗が養子に迎えられた。別名米将軍。享保の改革を主導し、幕府財政の立て直しを図る。
徳川吉宗って人は、紀州徳川家藩主の時も、将軍就任の時も不思議と藩主、将軍が亡くなってます。そしてその地位に就任してます。。なんか怪しいー(笑)。
正室は真宮理子女王。
松平健演じる「暴れん坊将軍」である(笑)。「成敗」(笑)。
徳川家茂
最初は、第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗る。実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟。徳川御三家紀州藩第13代藩主。
第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であるのを理由に、13歳で第14代将軍となる。
支持をしたのは、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派である。
正室は和宮親子内親王。
結局8代将軍吉宗から14代将軍家茂までは紀州家の血筋である。
徳川御三卿
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家。田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の三家。
始祖は、田安徳川家(田安家)が徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)、一橋徳川家(一橋家)が徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)、清水徳川家(清水家)が徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)。
徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担った。また、徳川御三家へ後継者を供給することにもなった。
家格は徳川御三家に次ぐ。当初吉宗は子供を大名の養子へ出す構想を持っていたようである。
三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる例であったから「御三卿」といった。
余談だが、「第9代将軍徳川家重は女性だという説」がある!戦後増上寺の墓を掘り起こして調査しているので、かなり信憑性があると思うのだが。。
いずれにせよ管理人好みの話である(笑)。
徳川家斉
いよー「オットセイ将軍」(笑)徳川家斉は精力増強のためオットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んでいたので「オットセイ将軍」とも呼ばれた。
1773年(安永2年)10月5日、御三卿の一つ、一橋家の当主一橋治済の長男として誕生。乳母は大崎局。1781年(天明元年)に第10代将軍・徳川家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称する。
1786年(天明6年)家治(50歳)の急死を受け、1787年(天明7年)に15歳で第11代将軍に就任。
正室は近衛寔子(ただこ)。金曜プレミアムスペシャルドラマ「大奥」では、オアシズ光浦靖子が演じている(笑)。
徳川家斉は成宮寛貴が演じている。まったく余計な情報であっただろうか(笑)。
江戸幕府将軍の中では、「大奥」を一番利用した人物である!!
徳川慶喜
1837年(天保8年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。母は正室・吉子女王。幼名は松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)。
1847年(弘化4年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿の一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。
9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。水戸家からは、征夷大将軍になれいとは家康の遺言である!
御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。江戸幕府最後の将軍であり、歴史上征夷大将軍に任じられた最後の人物。
大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。
正室は一条美賀子。
別名「豚一様」「豚一どの」(笑)。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
徳川御三家、徳川御三卿からは、四人の征夷大将軍を輩出しています。結局御三家筆頭の尾張家からは征夷大将軍はでていません!
金曜プレミアムスペシャルドラマ「大奥」での上様が、一橋家出身の徳川家斉(成宮寛貴)だったので記事投稿してみましたw
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。