真田幸昌(大助)。父・信繁(幸村)と大坂入城。最期は美談で語られる
真田幸昌よりも「真田大助」のほうが広く知られている印象がある。名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。生年については諸説あるが、生涯といえるほど長くなく若くして亡くなっている。真田大助は最期が若年であったことから、なにか物悲しくてなりません・・・。
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真田幸隆(之綱)、真田昌幸、真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)などの記事投稿をします。ほか真田家関連の記事投稿もします。
真田幸昌よりも「真田大助」のほうが広く知られている印象がある。名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。生年については諸説あるが、生涯といえるほど長くなく若くして亡くなっている。真田大助は最期が若年であったことから、なにか物悲しくてなりません・・・。
真田信綱。父は真田幸隆。母は恭雲院(河原隆正の妹)。「武田二十四将」にも数えられる。官途は「左衛門尉」。これにより真田信繁(幸村)の官職「左衛門佐」の由来とされる。信綱のように剛勇になってほしいという弟・真田昌幸の期待があったといわれる。
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
河原綱家といえば、犬伏の密談を覗き、真田昌幸に下駄を投げられ前歯を折ることで有名である。綱家は、それ以降一生「すきっ歯」となってしまった。管理人も河原綱家に関する情報は、下駄しかなかったので調べてみた。
大河ドラマ「真田丸」第26話「瓜売」で、春(竹林姫・演じるのは松岡茉優)、たか(隆清院・演じるのは岸井ゆきの)が登場したので真田信繁(幸村)の正室・側室、子女についてまとめてみた。人物の概略、真田丸での配役を織り交ぜながら書いてます。
隆清院は真田信繁(幸村)の側室であり、父は豊臣秀次。母は秀次の継室(正室)・一の台(菊亭晴季の娘)。信繁(幸村)とは1男1女をもうけている。のち直(なほ)は出羽亀田藩主・岩城宣隆の室となり、お田の方と呼ばれる。少し豊臣秀次事件に触れてみる。
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。