古河城は室町時代には「古河御陣」とも呼ばれ、古河公方の本拠となった時期には古河御所(こがごしょ)とも呼ばれた。江戸時代おける藩主は幕府の要職を歴任し、大老・老中を輩出している。明治以降、珍しく城は徹底的に破壊されている。「古河城本丸跡」は大きな目印としては標柱が立っているだけである・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
管理人にとっては、古河公方の、そして関白・近衛前久が立てこもった城としての知識くらいはあった。
茨城県古河市の「古河城跡」周辺、「古河城本丸跡」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
目次
古河城跡を訪ねて
茨城県古河市の「古河城跡」「古河城本丸跡」に行ってきました!
古河城跡といってもほとんど何も残ってなく、「古河歴史博物館」周辺を散策してきました。
室町時代には「古河御陣」とも呼ばれ、北朝・足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。
古河市鴻巣の古河公方館も「御所」と呼ばれるため、混同しないように注意してください。
古河歴史博物館周辺には、鷹見泉石記念館・古河文学館・永井路子旧宅などがある。
そして「古河城本丸跡」は、少し離れた場所である渡良瀬川の土手に標柱が立っている。
古河城の概要
平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、「下河辺行平」が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされる。
室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。
江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備。古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとしても機能。
明治時代初期の「廃城令」により廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡も大半が消滅。
古河城の遺構
画像は古河歴史博物館下の「古河城出城諏訪曲輪跡」の碑。
明治末に開始された渡良瀬川改修事業の際に、主要部分は堤防や河川敷に変わった。堤防の市街地側には、観音寺曲輪の大半・桜町曲輪の半分・百間堀等の水堀が残されたが、現在はこれらも宅地等に変わり、ほとんどの遺構は消滅。
本丸や二の丸等の主要部分は、渡良瀬川に架かる三国橋と新三国橋にはさまれた堤防・河川敷に相当。市街地では、観音寺曲輪は錦町、桜町曲輪は桜町におおむね相当する。
- 頼政神社(錦町)は、渡良瀬川改修工事の際、観音寺曲輪西北部の土塁上に移設されたもので、現在もその土塁の一部が残る。
- 桜町曲輪北側土塁(「獅子ヶ崎土塁」)(桜町)は、現在、市街地の中に一部が残る。
- 古河歴史博物館(中央町)は、「出城」(諏訪曲輪)跡地に建てられており、一部の土塁と堀が残る。
- 福法寺(中央町)の山門は、二の丸御殿の乾門が移築されたもの。(市文化財)
- 坂長(中央町)には、城内の文庫蔵・乾蔵を移築したと伝わる建造物(国の登録有形文化財) が残る。
ほか追手門・船渡門・桜門跡地に石碑、本丸跡地の堤防上に標柱があり、かつての城域を示している。
画像は移築された二の丸御殿の乾門。現在は福法寺(中央町)の山門。
画像は「古河城御茶屋口門址」の碑。
鷹見泉石記念館
江戸時代中期から後期の古河藩家老・鷹見泉石の記念館。晩年の鷹見泉石の住まいを改修。
鷹見泉石は「大塩平八郎の乱」の鎮圧にあたったようです。
隣は南画家・奥原晴湖の画室。
勉強不足の管理人は二人の名前を知りませんでした(笑)。
古河歴史博物館
古河歴史博物館は、平成2年に旧古河城出城跡に開館。
周辺景観を生かし吉田桂二によって設計されたこの建物は、平成4年の日本建築学会賞、同6年の公共建築賞を受賞しています。
常設展示は、古河藩家老・鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料、原始古代から近現代の歴史の概観、奥原晴湖や河鍋暁斎らの書画作品の紹介などがあります。
ほか静御前の伝承、「源三位」として名高い源頼政についても触れています。
古河歴史博物館の周辺
古河歴史博物館の周辺を散策。
古河文学館で一枚。
古河文学館でもう一枚。
風情があったので、「茨城県古河市立古河第一小学校」。
「永井路子旧宅」。
「永井路子旧宅」の庭。
「永井路子旧宅」でもう一枚。
それにしても、お茶がでてきたのにはビックリしました。
それまで結構歩いていたので、美味しかったです。
おもてなしに感謝!ありがとうございました!!
古河歴史博物館の所在地および交通アクセス
管理人が行った時は、たまたま「浅野恭司原画展」を開催していました。
古河歴史博物館の所在地および交通アクセスについて。
- 住所:古河市中央町3-10-56
- TEL:0280-22-5211
- 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日:祝日の翌日、第4金曜日、年末年始(12/27~1/4)
- 料金(3館共通):600円。
- 歴史博物館:一般400円(300円)、小中高生100円。
- 文学館:一般200円(150円)、小中高生50円。
- 篆刻美術館:一般200円(150円)、小中高生50円。
- 街角美術館・三和資料館は、無料。( )内は、20名以上の団体料金。企画展、特別展中は別料金あり。
- JR宇都宮線古河駅より徒歩15分、東武日光線新古河駅より徒歩20分。
画像は古河歴史博物館周辺の地図。
管理人も、まだまだ行ったことがない場所がたくさんあります。
何かの参考になればと思います・・・。
古河城の歴史
「永享記」などによれば、平安時代末、源頼朝に従った武将・下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に城館を築いたことに始まる。
ほぼ同時期、以仁王の挙兵にて敗死した源頼政(源三位として有名)の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる。現在の「頼政神社」。
そして静御前の伝承も伝わる。そのへんは、古河歴史博物館でも紹介されてます。
古河公方の本拠として
室町時代前期の南北朝時代、古河城は北朝・足利氏の拠点の一つであった。
室町時代後期から戦国時代にかけては、「古河公方」の本拠となる。
「享徳の乱」において、第5代鎌倉公方・足利成氏は関東管領・上杉氏と争う。1455年(享徳4年)、今川範忠に鎌倉を占拠。足利成氏は下総古河に本拠を移した。ここに「古河公方」が成立。
成氏の勢力範囲は、渡良瀬川・利根川の東側にあった下総国・常陸国・下野国・上総国・安房国であり、山内上杉家および扇谷上杉家の勢力範囲は、反対側の上野国・武蔵国・相模国・伊豆国だった。
京都の室町幕府も上杉氏を支持、新たな鎌倉公方として足利政知(堀越公方)が東下して、30年近く両勢力は争い続ける。
古河を本拠に選んだ理由は、
- 前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすい。
- 小山氏や結城氏等、成氏を支持する諸将の根拠地が近い。
- 鎌倉公方家の御料所があり経済的な基盤となったこと。
成氏は当初、古河の鴻巣にあった「古河公方館」を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。
扇谷上杉家の家宰・太田道灌は、古河城に対抗する前線上に江戸城・岩付城・河越城を築き、拠点とした。
古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つとなる。
永禄年間(1558年~1570年)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援する関白・近衛前久が滞在。足利藤氏・上杉憲政も古河城に入城。
のち後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた。
永禄10年(1567年)から天正年間(1573年~1592年)にかけては、佐竹氏や結城氏らに対抗するため、北条氏照のもとで城の整備・拡充が進められる。
- 1582年(天正10年)、足利義氏が死去。古河公方家断絶。
- 1590年(天正18年)、関白・豊臣秀吉が小田原征伐の後に城の破却令を出した。
- 1590年(天正18年)、徳川家康に従っていた小笠原秀政が入部し、城を修復・拡張。秀政は城の修復の間、栗橋城に滞在。
後北条氏の持城として栗橋城・関宿城がみえるが、古河城はみえないことから、最後の古河公方・足利義氏が死去したのちの「氏姫期」にも、完全には支城化されず、古河足利氏の本拠として別扱いされていたことが分かる。
「古河城」という表現は、1471年(文明3年)以後、史料にみられるようになる。以前は「古河御陣」が多く用いられていた。
江戸時代
江戸時代は日光社参の将軍宿城として。
江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。
歴代藩主からは、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などを輩出。
城下には日光街道の宿場町である古河宿が展開するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。
徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとしても重視された。
明治以降
戊辰戦争では、藩内の意見を勤皇派に統一して戦火を避けた。
1873年(明治6年)、廃城令によって廃城処分となる。
明治末に、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まる。
このときに主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、堤防や河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅。建設機械が発達していない時代に、このように大きな城跡を徹底して破壊した例は珍しく、改修事業の規模の大きさが分かる。
この河川改修の際、遊水池を設けるために、古河城の北にあった旧古河藩領・谷中村が廃村となった。
田中正造は、
「関宿の江戸川分岐点の閘門を広げて、利根川の水を地勢に従って東京湾に流すことで、遊水池がなくても洪水を防げる」
と主張し、足尾銅山の鉱毒問題が治水問題にすりかえられていると批判した。
土井利位
画像は「古河市立古河第一小学校」近くの歩道にて。雪の結晶を表してます。
土井利位(どいとしつら)。1789年(寛政元年)5月22日~1848年(嘉永元年)嘉永元年。
下総古河藩の第4代藩主。土井家宗家11代。江戸幕府の老中首座。
1832年(天保3年)、土井利位が「雪華図説」を著した。
雪の結晶の研究を行い「雪の殿様」の異名で知られる。
古河城本丸跡
画像は「古河城本丸跡」の標柱。
以前は古河史楽会作成の説明板が設置されていたようですが、管理人が行った時には「古河城本丸跡」の標柱だけでした。
たったこれだけ・・・。いってしまえば、ただの木の棒です(笑)。
この角度からの写真、ヒントになります。ナビにもないし、管理人は到着するのに苦労したので、背景にある青い橋は目印になると思います。
「古河城本丸跡」の標柱は、高さが思ったよりも低く管理人の腰くらいしかありません。
行った時期が夏で草が生い茂り、土手下からではわかりませんでした。
土手下、それも車の中からでは、わかるはずがありません(笑)。
「古河城本丸跡」標柱の周りの草は、綺麗に刈られていました。以前行った時は夏だったので、これだけでも見た感じ十分違います。
これです、これ。このアングルの写真は、いまいち場所がわからなかった時のヒントになると思います。
画像は「古河城本丸跡」標柱の土手下。道路側になります。
まわりは、こんな感じになっています。みなさんの役に立てばと思っています。
古河城本丸跡の所在地
画像は青い屋根の民家を中心に撮影しました。
いちおう古河城本丸跡の所在地を記述します。
住所は茨城県古河市桜町13-20
写真のとおり「古河城本丸跡」の標柱は渡良瀬川の土手に立っています。ご覧のとおり周りは何もありません。
土手下の道路脇には「青い屋根の二階建たての民家」があります。これが一番の目印になります。
管理人は目的地近辺で何回も行ったり来たり迷ってしまいました(笑)。
まあ今となっては、いい思い出となっているんですが・・・。
車は河川敷に駐車するしかないと思います。そこから土手に上がり、目的地まで歩いてください。
次回行く機会があれば、渡良瀬川側から「古河城本丸跡」の標柱と「青い屋根の二階建たての民家」が一緒に収まった画像をアップできればと思っています。
(追記-2016.10.26)「古河城本丸跡」標柱周囲の目印を中心とした画像を投稿しました。よろしければ参考にしてみてください。
古河公方館跡
古河市鴻巣の「古河公方館跡」に行ってきました!
古河公方館は鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれ、「古河御所」と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
正定寺
すぐ近くには江戸幕府大老・土井利勝が開基がした正定寺がある。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
何と言っても、「古河城本丸跡」でしょう(笑)。
それと「古河城」の全貌もつかめてません。
管理人の自宅からは、そんなに遠くないので、あと数回行ければと思ってます・・・。
いつも思うですが、関東の歴史、それも頼朝ぐらいから後北条氏滅亡までが、ゴチャゴチャして覚えられません。
機会があれば一度整理して記事にしたいと思います!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。