義経の死を知らされた静御前は思案橋より、義経の叔父が住職を務める高柳寺を訪ねる。静御前は出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり22才の生涯を閉じたと伝わる。かつて高柳寺があった場所には、今でも「静御前之墓」が残る・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
栗橋駅東口の「静御前之墓」について記事投稿してみたいと思います。少しだけ「笹龍胆」にも触れています。
それではいってみよう!
静御前之墓
古河市下辺見(しもへいみ)の「思案橋」に続いて、埼玉県久喜市栗橋の「静御前之墓」を訪れる。
茨城県と埼玉県といっても距離は約7km。移動には楽な距離だと思う。
静御前之墓の場所は、栗橋駅東口の左手。ほぼ駅前と言っていいだろう。
静御前之墓のスペースだけは、異空間の様な感じを受ける・・・。
静御前之墓があるあたりは、かつて高柳寺があったとされる。
思案橋
以下は、この地域の伝承による。
源義経は兄・源頼朝に追われて奥州平泉まで落ちのびた。静御前は義経を慕い、侍女・琴柱とともに京を出発。
下総国にたどり着いた静御前は、下辺見の茶店で義経の死を知る。
平泉まで行こうか戻ろうか思案した静御前は、行くのを断念。義経の叔父が住職をしていた当時埼玉県久喜市栗橋にあった高柳寺を訪ねる。
寺に到着した静御前は、悲しみのため病の床に伏し22才の生涯を閉じたと伝わる。
静御前の生前をしのび、静御前が思案にくれて立ちつくした橋を「思案橋」と呼び後世に伝えている。
高柳寺
高柳寺は、かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった。現在は名称も変わり「光了寺」。場所も茨城県古河市中田に移っている。
静御前は出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり1189年(文治5年)9月15日に22歳で亡くなったとされる。
光了寺の過去帳によると、静御前の戒名は「巌松院殿義静妙源大姉」とある。
画像は静御前の墓。
画像は源義経の招魂碑。
画像は、生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔。
ちなみに埼玉県久喜市栗橋区域には、かつて「静村」という村があったとされる。
静御前之墓の所在地
栗橋駅はJR宇都宮線と東武日光線が乗り入れている。
栗橋駅東口より左方向。すぐにわかると思います。
住所:埼玉県久喜市栗橋中央1丁目2
毎年9月15日には「静御前墓前祭」と称する追善供養が行われる。「静御前墓前祭」では邦楽の演奏。
また10月第3土曜には「静御前まつり」と呼ばれる祭が行われる。「静御前まつり」では義経・静御前・白拍子などによるパレードも。
笹龍胆
画像には、源氏の家紋とされる「笹龍胆」があります。
他には、墓所の門・燈籠にも「笹龍胆」が・・・。
我々、現代人は源氏といえば、源義経といえば「笹龍胆」だと思いこんでいます。
義経が活躍した平安末期には家紋という概念がありません。
貴族が自分のマークを決めて、持ち物につけるというのが流行したらしいですが、あくまでも個人のマークどまり。
代々の家紋という概念は、鎌倉時代以降みたいです。
ちなみに鎌倉市の市章は「笹龍胆」。どうなんでしょうか・・・。
義経を慕う歌
墓石の後ろには源頼朝を激怒させたと言われる歌があります。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい
静御前の地方伝承
静御前には、数々の地方伝承がある。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
まとめ
源義経と静御前。二人には数々の伝説がある・・・。
それだけ皆に愛されてる証拠だろう。
義経を思いながら、その死を知った静御前。行先を思案したとされる思案橋。そして今回の静御前之墓。機会があれば行ってみてください。
車で走行中に偶然見つけることができた思案橋から、すべては始まった。
これも何かの縁かもしれない・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。