源義経は兄・源頼朝に追われて奥州平泉まで落ちのびた。静御前は義経を慕い、侍女・琴柱とともに京を出発。下総国にたどり着いた静御前は、下辺見の茶店で義経の死を知る。静御前が平泉まで行こうか戻ろうか思案した橋。それが「思案橋」と名付けられた・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
源義経の死を知った静御前が行き先を思案したとされる茨城県古河市下辺見の「思案橋」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
思案橋を訪ねて
国道354号線を車で走行中、誰かの銅像とのぼりが目に入った。場所は茨城県古河市下辺見(しもへいみ)。
車を停車し確認すると「静御前」との名称。古河市に静御前・・・??、案内板を確認すると、この地域に静御前の伝承があった。
すぐ近くには一級河川・向堀川に架かる橋が・・・。その名も「思案橋(しあんはし)」。
案内板により思案橋の由来を知った。
思案橋の手前には「静御前之像」があり、ちょっとした小公園のスペースがある。
思案橋の由来
源義経は兄・源頼朝に追われて奥州平泉まで落ちのびた。静御前は義経を慕い、侍女・琴柱とともに京を出発。
下総国にたどり着いた静御前は、下辺見の茶店で義経の死を知る。
平泉まで行こうか戻ろうか思案した静御前は、行くのを断念。義経の叔父が住職をしていた当時埼玉県久喜市栗橋にあった高柳寺を訪ねる。
寺に到着した静御前は、悲しみのため病の床に伏し22才の生涯を閉じたと伝わる。
静御前の生前をしのび、静御前が思案にくれて立ちつくした橋を「思案橋」と呼び後世に伝えている。
高柳寺
画像は栗橋駅東口にある「静御前之墓」。
高柳寺は、かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった。現在は名称も変わり「光了寺」。場所も茨城県古河市中田に移っている。
静御前は出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり1189年(文治5年)9月15日に22歳で亡くなったとされる。
光了寺の過去帳によると、静御前の戒名は「巌松院殿義静妙源大姉」とある。
栗橋駅東口には静御前の墓と義経の招魂碑、生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔がある。
ちなみに埼玉県久喜市栗橋区域には、かつて「静村」という村があったとされる。
静御前之像
思案橋の手前には「静御前之像」があり、ちょっとした小公園のスペースがある。
ボタンを押すと「静桜伝説」の歌が流れます。
画像は思案橋の下を流れる一級河川・向堀川(むかいぼりかわ)。
土地提供はわからないが、銅像の建立は近くにある「トモエ乳業株式会社」によるもの。
思案橋の所在地
思案橋は一級河川・向堀川(むかいぼりかわ)に架かる。所在地は茨城県古河市下辺見(しもへいみ)。国道354号線沿いに「静御前之像」がある。
少しだけ歩くと、トモエ乳業株式会社の本社。大きな目印になると思います。
義経を慕う歌
画像は栗橋駅東口にある「静御前之墓」。墓石の後ろには源頼朝を激怒させたと言われる歌があります。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい
静御前の地方伝承
静御前には、数々の地方伝承がある。古河市の思案橋も、その一つであるのだが・・・。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
まとめ
源義経と静御前。二人には数々の伝説がある・・・。
それだけ皆に愛されてる証拠だろう。
義経を思いながら、その死を知った静御前。行先を思案したとされる思案橋。機会があれば行ってみてください。
歴史って後世に解明されるのも大事だが、謎のまま解明されないのもありだと思っている。
だって、そのほうがロマンを感じるでしょう・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。