城跡公園近くの「みかつきはし」は別にして、金光寺山門を見れたことには感動した。残念なのは、真ん中の和歌が削られていること。三首の和歌は何が書いてあるかわかっているので、消しても無駄なような気がする。真ん中だけというのがね・・・、気にならないことはない。たんなる嫌がらせだろうか・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
茨城県結城市の「金光寺山門の和歌」「みかつきはし」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
目次
結城埋蔵金伝説
「金光寺三首の和歌」は結城埋蔵金と関係があるとされる。そして結城城跡公園近くの「みかつきはし」は埋蔵金探しのおり建設された。
「結城埋蔵金」は結城家17代当主・結城晴朝により埋蔵されたとされている。
結城家の祖である初代・朝光(ともみつ)は、源頼朝に忠勤して奥州藤原氏を征伐した時、藤原氏から略奪した莫大な砂金を恩賞として受け取ったとされる。
つまり埋蔵金の財宝は奥州藤原氏の砂金というか黄金です。
※結城家初代・結城朝光は、小山政光の三男。都市伝説かもしれないが、源頼朝の御落胤との噂もある人物。
財宝が隠されたとされる場所は
- 結城城跡
- 会之田城跡
- 小山市の西の城
- 栃木県南河内町の晴朝の隠居所
- その他の古井戸
狙われた結城家
結城家は石高のわりに豊富な財政を誇っていたみられていた。
結城晴朝は戦国大名として生き残りを図り、関白・豊臣秀吉から所領を安堵された。同時に秀吉の養子であった秀康(徳川家康の次男)を養子としてむかえる。
秀吉の死後、結城家は越前転封。結城城は破却され、廃城となった。家名も松平になり、鎌倉時代から続く名家・結城家の血脈は事実上断絶。
徳川家康は結城埋蔵金を狙っていたとされる。
晴朝は本物の結城家の血筋が絶えることと結城の所領が捨てられることに衝撃を受けた。結城家再興を願い財宝全てを埋蔵したとされる。
1614年(慶長19年)7月20日、越前国北ノ庄または中久喜城(茨城県結城市・一部栃木県小山市)にて、結城晴朝が死去。享年81。
結城埋蔵金は闇の中に消えてしまったのか・・・。
奥州藤原氏の黄金
奥州藤原氏の黄金を結城氏が受け継いでる説は、もっぱらの噂となっていたようです。
廃城となった結城城は天領となり、幕府からは「何人たりとも、結城城に立ち入るべからず」のお触れ書きが出されていたようである。
財政難に陥った八代将軍・徳川吉宗の時代、寺社奉行・大岡越前守忠相は老中の密命により埋蔵金探しを行っている。江戸時代を通じて、数回の埋蔵金探しが行われたらしい。
その後も明治・大正と、この地を掘り起こそうとする人が後を絶たなかったのだとか・・・。
「結城埋蔵金」だけは、現在も進行しているらしい。誰かが何処かで埋蔵金探しをしているとされる・・・。
結城埋蔵金伝説とは無関係だろうが、城跡公園駐車場近くでの一枚。
日本三大埋蔵金
埋蔵量により「日本三大埋蔵金」といわれる埋蔵金がある。
日本三大埋蔵金とは、
- 豊臣秀吉埋蔵金
- 徳川埋蔵金
- 結城埋蔵金
金光寺
今までは序章のようなもので、ここからが本題となる。
結城埋蔵金伝説と深く関わりがあるとされる山門を見るべく、金光寺を訪れました。
どうしても山門の和歌が見てみたかった・・・。
幸運にも住職の奥方と思われる人物に話が聞けた。
貴重な話をありがとうございました。
金光寺山門の和歌
きの苧かふゆうもんにさくはなも みどりのこす万代のたね
こふやうにふれてからまるうつ若葉 つゆのなごりはすへの世までも
この歌は何者かによって消されている。
奥方によると、寺にお嫁に来た時は、文字はくっきり見えたらしい。消されたのは、そんなに昔のことではない。
心ない人が消したとしか思えない。ナイフなどでガリガリ消されたようにみえる。
よって吠える犬は必須らしい・・・。
どちらにしても残念である。
画像には写っていないが、普段は作業中のようである。修復工事でもしているのだろうか・・・。
あやめさく水にうつろうかきつばた いろはかはらぬ花のかんばし
以上、金光寺山門の和歌(三首)を取り上げてみた。
金光寺山門
金光寺山門自体に結城埋蔵金伝説のヒントが隠されているなんて言われている。
和歌以外にも、文字がある。これは見やすいようにチョークかなにかでなぞっている。
何か文字が・・・。
このような絵もヒントなのだろうか?
画像は山門の外にある現代の門。管理人の予想だが、不届き者の侵入を防ぐ目的があるのだろうか??
金光寺の所在地および交通アクセス
金光寺は、結城晴朝館の近くにあったとされる。金光寺のどこかに埋蔵金が隠されているという説もあるらしい・・・。
それでは「金光寺」の交通アクセスなどを。
- 住所:茨城県結城市小田林2045
- 宗派:真言宗
みかつきはし
城跡公園の近くに「みかつきはし」という橋がある。「三日月橋」「見哥月波し」ともいうらしい。
1918年(大正6年)、貴族院議員で子爵・水野直(みずのなおし・旧結城藩主水野家の子孫)が約一年間、結城城の周辺を掘りまくったそうです。
資金源は日本橋蠣殻町の米相場師で大儲けした「熊倉良助」。
その時に橋を建設、堀は名残らしい。
当時、埋蔵金探しで結城町は賑わい、前祝として結城町の家5千軒に紅白餅一重ねずつが配られた。
そして見物人相手の屋台まで出る賑わいであったといわれる。
埋蔵金探しの結果は、思わしくなく武具の破片が少々出たきりで、 めぼしい発見はなく終わったようです。
城跡公園の所在地および交通アクセス
「みかつきはし」から城跡公園は近いので、そちらの住所・マップ等を掲載。
- 住所:結城市結城2486-1
- 東北自動車道「佐野藤岡」ICより国道50号線経由で約50分
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まとめ
金光寺住職の奥方によると、管理人が訪れる数日前に中日新聞に「金光寺山門」が取り上げられたらしい。
それを見て来たんですかと言われたが、管理人は中日新聞を見ていない。金光寺を訪れたのは偶然です。
もう一回、山門をじっくり見てみたいと思った管理人である。
本当に結城埋蔵金はあるのだろうか?それとも・・・。
いづれにしてもロマンを感じる!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。