織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。
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東京都千代田区の有楽町って織田有楽斎が由来だと思っていたが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
織田長益(有楽斎)
織田長益(おだながます)。1547年(天文16年)~1622年(元和7年)12月13日。父は織田信秀。長益系織田家嫡流初代。
改名は長益、有楽斎如庵(号・うらくさいじょあん)。別名は源五、源五郎(通称)、有楽、有楽斎。霊名はジョアン。官位は従四位下・侍従。
織田信秀の十一男。兄弟は
- 信広
- 信長
- 信勝(信行)
- 信包
- 信治
- 信時
- 信興
- 秀孝
- 秀成
- 信照
- 長利
正室は清(雲仙院、平手政秀の娘)。
子は
- 長孝
- 頼長
- 俊長
- 長政
- 尚長
- 宥諌
- 娘(松平忠頼正室)
- 娘(湯浅直勝室)
- 永福院殿(津川近治室)
墓所は京都府京都市東山区大和大路通四条下ル小松町の建仁寺正伝永源院。
「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。
京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。
織田一門
兄・信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。
- 1574年(天正2年)、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修。信長の長男・織田信忠の旗下にあったと思われる。
- 1581年(天正9年)、京都御馬揃え。信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続く。
- 1582年(天正10年)、左義長の順は信忠・信雄・長益・信包となる。
甲州征伐では木曽口から鳥居峠を攻め、木曽勢に助力して鳥居峠を攻略。深志城の受け取り役を務める。
森長可・団忠正とともに上野国に出兵し、小幡氏を降伏させている。
本能寺の変後
本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出し、近江安土を経て岐阜へ逃れたとされる。
のち甥・信雄に仕え、検地奉行などを務める。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。信雄方として徳川家康に助力。
蟹江城合戦では大野城・山口重政救援、下市場城攻略にも参陣。蟹江城の滝川一益の降伏を仲介した。
戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。また佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいわれる。
- 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。
- 1590年(天正18年)、信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2,000石を領する。
剃髪して「有楽斎」と称す。姪・淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。
関ヶ原の戦い
秀吉死後、家康と前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護。
関ヶ原の戦いでは東軍に属した。長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦。寡兵ながら小西行長隊・大谷吉継隊・石田三成隊・宇喜多秀家隊と転戦して戦闘。
本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退している。
長男・長孝が戸田重政、内記親子の首級を取る。有楽斎も石田家臣・蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げる。有楽隊は西軍の有力武将の首級を2つ取るという活躍を見せた。
戦後、有楽斎は大和国内で3万2,000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。
豊臣家に出仕を続ける
関ヶ原の戦い後も、有楽斎は豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐。
この頃に、建仁寺の子院・正伝院(現在の正伝永源院)を再建し、院内に茶室・如庵を設けた。
正伝永源院には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。長益夫妻、孫娘(次男・頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。
大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。嫡男・頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立。
大坂冬の陣後、治長とともに和睦を締結させ、徳川家康に人質を出す。
大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、家康・秀忠に対し
「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」
と許可を得て豊臣家から離れた。
大坂退去後は京都に隠棲。茶道に専念し、趣味に生きた。
- 1615年(元和元年)8月、四男・長政、五男・尚長に1万石ずつを分け与えた。有楽斎本人は隠居料として1万石を手元に残す。
- 1621年(元和7年)12月13日、京都で死去。享年76。
織田有楽斎の子孫
庶長子・長孝は関ヶ原の合戦で戦功を挙げ、1万石を与えられて大名に取り立てられた。これが野村藩となり、事実上幕府から分家を認められた。
嫡子・頼長は関ヶ原の戦い後も父とともに豊臣秀頼に仕え、父の創始した茶道「有楽流」を継いだ。
1615年(元和元年)、有楽斎が隠棲。四男・長政と五男・尚長に大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。
長政が戒重藩(のちの芝村藩)、尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続く。
有楽斎自身が隠居料として取った1万石は、有楽斎の死とともに江戸幕府に収公。
有楽斎の逸話
織田有楽斎の逸話を少しばかり。
本能寺の変
「義残後覚」「明良洪範」などの編纂書では、織田信忠に自害を進言したのは織田長益(有楽斎)だとされた。
のちの逃亡劇を、京の民衆たちに
「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」
と皮肉られたという。
大坂冬の陣・大坂夏の陣
有楽斎は堺占拠の際、捕らえられた今井宗薫を赦すなど穏健的行動をとった。それに対し嫡男・頼長は「片桐且元殺害」を計画し信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽斎とも対立していた。
頼長は冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔。
有楽斎の大坂城退去は、この頼長の奇行も原因のひとつとされている。
大井戸茶碗
大井戸茶碗(おおいどちゃわん)は、長益が所持していた経歴から「有楽井戸」などの別名を持つ。
ツバキの一品種「太郎冠者」は別名「有楽」ともいうが、この名は長益(有楽斎)がこの品種を愛したことによる。学名「Camellia uraku」。
有楽町
説として、東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来した。
有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられた。
これは「有楽斎」の「有楽」と有楽町の「有楽」(ゆうらく)の文字が同一なことから生まれた俗説である!
管理人は恥ずかしいことに、この俗説を信じていた・・・。
有楽町は明治初期に有楽町、永楽町の二つの町名が新たに命名されたもので、有楽斎とは関係ないようである。
大河ドラマ「真田丸」では井上順が演じる
大河ドラマ「真田丸」では織田有楽斎を井上順が演じる。
井上順さんが、どうのこうのじゃなくて「織田有楽斎」が設定上必要なのだろうか・・・???利休絡みなのか・・・、それとも鶴松・・・。
今後に注目したいと思う!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
管理人にとっては、織田有楽斎(長益)は武将というよりは茶人のイメージしかなかった。
そして東京都千代田区の有楽町の話。やはり調べて見るもんです。
恥ずかしいことに、この記事を書くまで、俗説を信じてました。
織田有楽斎といえば、「有楽町」だと思ってました・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。