西笑承兌。臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務める。諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
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相国寺承兌とも呼ばれた西笑承兌(さいしょうじょうたい)についての記事投稿です。
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それではいってみよう!
西笑承兌
西笑承兌(さいしょうじょうたい)。1548年(天文17年)~1608年(慶長12年)12月27日。臨済宗の僧。
相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽。
豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務める。
諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝(以心崇伝)を徳川家康に紹介した。
西笑承兌の生涯
1548年(天文17年)に誕生。
幼い時に出家し、はじめ一山派の仁如集堯らに参禅して学んだ。
- 1584年(天正12年)、荒廃した相国寺に住む。相国寺を再建。
- 1585年(天正13年)、鹿苑僧録となる。
中華承舜の嗣法となって夢窓派に転じ、相国寺を再建、相国寺中興の祖と呼ばれる。
※鹿苑僧録とは、臨済宗の事実上の最高機関。五山以下の諸寺を統括し、諸寺の寺格決定や住持の任免、所領・訴訟などの処理を行った。
その後、南禅寺に入り、ふたたび鹿苑僧録となる。
豊臣秀吉の政治顧問となり、豊臣秀次や豊臣秀頼とも親交を持った。
文禄の役後の講和交渉では、秀吉の前で明使からの「冊封状」を読み上げたという逸話でも知られる。
- 1600年(慶長5年)、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たる。
- 1608年(慶長12年)12月27日、死去。
上杉家との交渉の際、西笑承兌あてに直江兼続から送られたとされる手紙が、のちにいう「直江状」である。
西笑承兌の著書
著書に「異国来翰認」がある。
1605年には伏見版「周易」を出版。近世易学の隆盛の祖ともされる。
参考サイト
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まとめ
西笑承兌(さいしょうじょうたい)といえば、文禄の役後の講和交渉で、秀吉の前で明使からの「冊封状」を読み上げたという逸話がある。
そして何と言っても「直江状」だろう。
大河ドラマ「真田丸」では、西笑として登場させ、このシーンを再現したのが凄い!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。