真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
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真田信幸(信之)の長男・真田信吉について記事投稿します。
それではいってみよう!
真田信吉
真田信吉(さなだのぶよし)。1595年(文禄4年)~1635年(寛永11年)11月28日。父は真田信幸(信之)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。
兄弟は信政、信重。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主
正室は松仙院(酒井忠世の娘)。側室は不詳。
子は熊之助、信直、長姫(関長政正室、のち千種有能室)。
墓所は群馬県沼田市材木町甲の天桂寺。戒名は天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士。
生年説
生年には諸説ある。
- 「沼田日記」では1595年(文禄4年)
- 「滋野世紀」では1596年(慶長元年)
- 「天桂院殿御事績稿」の享年42からは1593年(文禄2年)
今回は、「沼田日記」の1595年(文禄4年)を採用。
大坂の陣で逃走
1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに出陣。補佐したのは矢沢頼康。
しかし豊臣軍に敗れて逃走したと言われている。小山田茂誠も息子・之知と共に従軍。
- 1615年(元和元年)、従五位下・河内守に叙任。
- 1616年(元和2年)、父・信之が上田に移る。沼田城主として3万石の所領を相続。
沼田3万石は独立した藩ではなく、本家・松代藩の分領(分地)。
真田家は沼田において、家臣が直接自分の領地である村を支配する、地方知行を行っている。
1627年(寛永4年)8月、酒井忠世の娘(松仙院)と婚姻。松仙院との間には長姫をもうける。
側室との間に、熊之助・信直をもうける。側室腹の男子について、父・信之にも存在を隠した。
1634年(寛永11年)11月28日、江戸屋敷にて死去。享年40。
遺体は迦葉山弥勒寺に送られて荼毘に付され、天桂寺に葬られた。
後を継いだ長男・熊之助は早世。信吉の所領は次男・信直と弟・信政に分割相続された。
「真田丸」では広田亮平が演じる
真田信之(大泉洋)の嫡男・真田信吉を広田亮平が演じる。
「真田丸」では、幼名「仙千代」。母は「こう(長野里美)」。
第30話「黄昏」の1シーンでは「紙おむつ」が話題になった。
しかし「再丸」と呼ばれる再放送では、編集されカットされた。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田信吉の印象は薄くなりがちのような気がします。
父・信之が長寿で名君だったからでしょうか・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。