真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。

真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。,アイキャッチ画像
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真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田家から見た沼田領問題についてまとめてみました。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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天正壬午の乱

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、本能寺の変をきっかけに天正10年(1582年)に甲斐、信濃、上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明される。

しかし、上杉景勝の他、木曾義昌や真田昌幸などの在郷の諸勢力も加わっている広い範囲の戦役であった。

1582年(天正10年)6月19日、神流川の戦いで滝川一益が北条氏直に破れると、すかさず6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回。嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固める。

ドサクサに紛れて、武田時代の領地を回復する。真田家としては、できることをやった結果なのだが、これが後々問題になってくる・・・。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

徳川家康、北条氏直の和議による真田家への影響

真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。,画像01

1582年(天正10年)10月29日、徳川家康、北条氏直が和睦することで天正壬午の乱は終結する。和議の条件として、家康が勝手に真田家の沼田割譲を氏直に約束してしまう。

真田家は、天正壬午の乱の期間中も主家を何度も変えている。乱の終結時は、徳川家に属していた。が、この沼田割譲という和議の条件が、真田家を刺激する。また代替え地もはっきりしなかった。

沼田城は、たびたび北条氏に攻められるが、なんとか凌いでいた。真田家と徳川家の間では、沼田割譲問題は棚上げ状態になっていた。というか真田家側がスンナリ沼田を割譲しなかったのである。

真田昌幸は、徳川家康の出方を伺っていた。

小牧・長久手の戦い、そして徳川家康の甲府侵攻

そんな中、1584年(天正12年)3月、小牧・長久手の戦いがはじまる。家康は、そちらに全力投球。なんといっても相手は天下統一に爆進中の羽柴秀吉である!(笑)。

1584年(天正12年)12月、徳川家康が羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いの和議を締結。

徳川家康は、棚上げ状態になっていた沼田割譲問題を解決すべく、1585年(天正13年)4月、甲府に軍を進めて真田昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求める。

家康からの決別を伺っていた昌幸は、徳川家康・北条氏直と対立していた上杉景勝と結ぶことを決意する。

1585年(天正13年)7月15日、正式に昌幸の次男・真田信繁(幸村)が上杉景勝に人質として仕えることとなる。

混乱の中、真田家は、小県も掌握し、少しづつ領土を広げていたのである!

第一次上田合戦

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徳川家康と北条氏直は、真田領の制圧を目論む。これにより、1585年(天正13年)閏8月、第一次上田合戦がはじまる。

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させる。真田昌幸は、わずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている。

その後も、小競り合いが何度かあるが、真田家は負けなかった。これにより真田家は、武田の旧臣から独立した信濃の大名として豊臣系の大名から評価、認知されるようになる。

1585年(天正13年)冬、次男の真田信繁(幸村)が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕。よって真田昌幸は豊臣家に臣従。

第一次上田合戦の敗戦により、徳川家は北条家との同盟をより強固にする必要に迫られるのである。

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

沼田領問題

なおも北条氏直による沼田城への攻撃は続くが、真田家は、なんとか凌いでいた。

1586年(天正14年)7月、徳川家康が真田昌幸征伐のために甲府に出陣。が、1586年(天正14年)8月7日に豊臣秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。

その代わりに1586年(天正14年)11月4日、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。

1587年(天正15年)3月18日に真田昌幸は、小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見。その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となる。

最終的に1589年(天正17年)、豊臣秀吉の裁定により沼田城は、北条氏の支配になり、猪俣邦憲が城代となる。これにより沼田領問題は決着する。

しかし1590年(天正18年)、猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を攻めたことにより、豊臣家の小田原征伐が開始される。小田原征伐のきっかけになってます!いわゆる「名胡桃城事件・名胡桃城強奪事件」である。

小田原征伐により、北条氏を滅亡させた秀吉は、真田昌幸の長男・真田信幸(信幸)に沼田城を支配させる。

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

天正壬午の乱 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

真田家から見た沼田領問題を軸に記事投稿してみました。

この情報をもとに、大河ドラマ「真田丸」を楽しみに視聴したいと思います!!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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