鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。構造は連郭式平山城。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張。八王子城と並び後北条氏の最重要拠点。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
北条氏邦が入城した「鉢形城」について記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
目次
鉢形城を訪ねて
後北条氏の関東経営における重要地点である鉢形城に行ってきました。
後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張。後北条氏の上野国支配の拠点となった。のち下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城。
行ってみるとわかりますが、遺構の残存状況がきわめて良好というのがよくわかります。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。
鉢形城の概要
鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。構造は連郭式平山城。深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地。
縄張りは、平地部に面する南西側に大手・外曲輪・三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配す。
両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)・本曲輪(本丸)・笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。
搦手・本丸・二ノ丸・三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
遺構は土塁、堀。
現在は「鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)」として整備。園内にはガイダンス施設「鉢形城歴史館」が設置されている。
鉢形城の歴史
- 1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰・長尾景信が古河公方・足利成氏を攻める。景信は五十子において陣没。
- 1476年(文明8年)、景信の嫡男・長尾景春が武蔵国鉢形の地に城を築城。鉢形城の始まりである。
長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男・長尾景春ではなく弟・長尾忠景であり、山内上杉家の当主・上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
景春はこれに怒り、鉢形城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返した。
- 1478年(文明10年)、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が鉢形城を攻める。上杉顕定が入城。
- 1488年(長享2年)、扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻める。城の近くで両軍が激突(高見原の戦い)。
定正は勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退。
- 1494年(明応3年)、上杉定正は伊勢盛時(北条早雲)とともに、再度挙兵。
- 1512年(永正9年)、上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城。
定正は荒川渡河中に落馬して死去。上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子・上杉顕実(実父は古河公方・足利成氏)も鉢形城を拠点とした。
鉢形城を落とされた上杉顕実は助命されたが、山内上杉家当主の座を失った。
- 1515年(永正12年)、憲房は山内上杉氏の家督を相続。顕実死去により関東管領職をも相続。
- 1525年(大永5年)3月、上杉憲房が病没。家督は養子・上杉憲寛が相続したが、のちに争いの末、実子・上杉憲政が継いだ。
山内上杉氏の家督と関東管領職を相続した上杉憲房であったが、家臣・長尾景春が離反。扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代・北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争が勃発。
- 1546年(天文15年)、河越夜戦。後北条氏3代・北条氏康が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略。
- 1564年(永禄7年)、氏康の四男・北条氏邦が鉢形城へ入城。
河越夜戦により、後北条氏が武蔵国における覇権を確立。
北条氏邦入城により、鉢形城は後北条氏の北関東支配の拠点となった。
戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、
- 1569年(永禄12年)、武田信玄による攻撃。
- 1574年(天正2年)、上杉謙信が城下に火を放つ。
1590年(天正18年)、関白・豊臣秀吉による小田原征伐。鉢形城は前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠らの連合軍(35000)に包囲。
北条氏邦の老臣・黒澤上野介ら(3000)が約1か月の籠城戦を戦ったのち開城。
のち徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
- 1932年(昭和7年)4月19日、「鉢形城跡」として国の史跡に指定。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(18番)に選定。
鉢形城の遺構
画像は三の曲輪の復元された石積土塁。伝承によると北条氏邦の家臣・秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれている。一段高くなっている四脚門と土塀、柵で囲まれた区域は、庭園が発見された。
画像は二の曲輪と三の曲輪を隔てる巨大な空堀と土塁。
画像は笹曲輪。
画像は笹曲輪付近の石垣。
画像は外曲輪。外曲輪は下級武士の住まいがあった曲輪で、周囲には土塁が築かれている。
現在の鉢形城
画像は史跡鉢形城跡の曲輪配置図。
画像は三の曲輪の復元された四脚門。
画像は伝御殿曲輪の「鉢形城本丸跡」の石碑。後ろは荒川の断崖絶壁上にある土塁。
画像は田山花袋の漢詩碑。
画像は正喜橋(しょうきはし)の上から撮影した荒川。
画像は笹曲輪付近の「史跡鉢形城址」の石碑。正喜橋(しょうきはし)の近くになります。
画像は鉢形城歴史館の前にある休憩所に展示してある武将の家紋。武田氏の「武田菱」と真田氏の「六文銭」。
画像は鉢形城歴史館の前にある休憩所に展示してある武将の家紋。後北条氏の「三つ鱗」。
鉢形城歴史館
鉢形城の外曲輪に位置する鉢形城歴史館。
- 開館時間は午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
- 駐車場利用は開館日の午前9時~午後5時
- 休館日は月曜日(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、祝日の翌日、年末・年始
- 百名城スタンプは、駐車場正面入口の郵便ポストに設置
- 一般-200円(100円)
- 学生等-100円(50円)
- 70歳以上、小学生・中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料
管理人が訪れた時には、「関東の武具」を開催しておりました。
鉢形城の所在地および交通アクセス
鉢形城の所在地および交通アクセスについて。
- 住所:埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
- 東武東上線・秩父鉄道秩父線・JR八高線 寄居駅下車。徒歩約25分。
- 東秩父村営バス「和紙の里」行きで「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分
- 関越自動車道花園ICから国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6km(15分)
駐車スペースは、かなり余裕があります。
うさぎや
昼食は「うさぎや」でつけめんを食する。
食べログなどのネットでの評判が良かったので、この店を選びました。
行列もなく店内には、あまり人がいなかった。
大丈夫だろうかと不安がよぎる・・・。
メニュー
注文したのは「うさぎつけめん」。
う~ん、普通の味です。
なんだろう、この感覚は・・・。つけめんで有名な店なはずだが・・・。
次に来店した時は、ラーメンを注文したいと思う。
一回だけでは、判断できません。
でも自信を持って、美味しかったとは言えないという感想です。すみません・・・。
営業時間および交通アクセス
営業時間、交通アクセスなどを記述。
- 住所:埼玉県大里郡寄居町1536-3
- TEL:0485-86-1035
- 東武東上線・八高線・秩父鉄道寄居駅より徒歩8分。
- 国道140号線、寄居警察署より秩父方面へ約800m。上り車線側。リサイクルショップB-DASHの前。
- 駐車場:11台(B-DASHと共用)
- 定休日:月曜日
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田丸でも北条氏政(高嶋政伸)が降伏を決意する時には、鉢形城・八王子城の陥落が要因の一つとして描かれていました。
それほど、後北条氏にとっては最重要拠点の城です。
遺構の残存状況がきわめて良好なので、機会があれば訪れてみてください。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。