久能山東照宮。もとは久能寺、武田信玄により久能城。家康公の神廟

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久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年(元和2年)に死去した後、遺命に埋葬された場所が、現在の久能山東照宮。家康公の神廟は遺命より西を向いているのは有名な話である。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

最初に徳川家康公が埋葬された「久能山東照宮」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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久能山東照宮を訪ねて

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鳥取県米子市の帰りに新静岡ICで新東名高速を降りた。そして一泊。これは当初の予定通り。

次の日には、駿府城・久能山東照宮を見て回る予定でいた。

駿府城の記事投稿は済んだので、静岡シリーズ第四弾として久能山東照宮を書きたいと思う。

偶然立ち寄った「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」「徳川慶喜公屋敷跡」の記事投稿もしてますので、よろしければ参考にしてみてください。

それではいってみよう!

久能山東照宮の概要

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画像は末社日枝神社本殿(旧本地堂)。

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。

晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年(元和2年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。

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祭神は徳川家康(東照大神・東照大権現)。相殿に豊臣秀吉・織田信長が祀られている。

家康は、大御所として駿府に在城当時、

「久能城は駿府城の本丸と思う」

と、久能山の重要性を説いたといわれる。

死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、1617年(元和2年)12月には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営。

家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まった。

日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。

本殿の様式は「権現造」

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現在の久能山東照宮

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画像は「家康公御手形」。

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画像は「五重塔跡」の石碑。寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の「神仏分離」によって解体。

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画像は修復工事中の「唐門」。見れなかったのは残念です。

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画像は末社日枝神社本殿(旧本地堂)の西側面。これも修復工事中でした。

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画像は「家康公お手植えのミカン」。駿府城本丸跡にもありました。

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画像は「久能山東照宮博物館」。

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画像は「神廟」。江戸時代は御宝塔とよばれ、明治以降は神廟と呼ばれています。家康公の御遺命により西側を向いています。

有名な話ですよね!

日光東照宮の神廟までの距離に比べると、あっけないくらい短かったのが感想です。

それに比べて日光東照宮の神廟までの距離は長くて疲れます(笑)。

久能山東照宮の所在地および交通アクセス

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山門までは行けなかったが、山門近くから見た久能山東照宮。

ちなみに石鳥居から数えて1159段の段数を誇り、1159の数字に文字が当てられ「いちいちご苦労さん」と呼ばれているそうです。

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静岡鉄道日本平ロープウェイが開通(昭和32年)するまでは、この石段のみが東照宮への参拝路でした。文明の利器に感謝です(笑)。

久能山東照宮の所在地。久能山東照宮のマップ等を掲載します。

所在地、交通アクセス等は、

  • 住所:静岡県静岡市駿河区根古屋390
  • TEL:054-237-2438

日本平山頂西側にある日本平駅から日本平ロープウェイで約5分。

日本平山頂には、公設・静岡鉄道私有のものを含め、一般車・観光バス向けの無料駐車場が多数用意され、ロープウェイ運行時間内は自由に利用できる。

新静岡バスターミナル・静岡駅北口・東静岡駅南口からしずてつジャストライン・日本平線42系統「日本平ロープウェイ」行き終点下車。日本平ロープウェイ乗場入口。

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管理人は無条件にロープウェイを選択しましたが、体力に自身のある方は徒歩も一興かと・・・。

久能山東照宮の歴史

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久能山(標高216m)は、もともと日本平とともに、太古、海底の隆起によって形成。

長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。

近世以前

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  • 592~628年頃、推古天皇期。久能忠仁が久能山麓に「久能寺」を建立。
  • 1568年(永禄11年)。武田信玄が駿府へ侵攻。久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(現在の鉄舟寺)、久能城を築いた。

奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。

  • 1616年(元和2年)4月17日、徳川家康が駿府城(現在の静岡市)で死去。
  • 1616年(元和2年)5月、久能山で東照社(現・久能山東照宮)が着工。
  • 1617年(元和2年)12月、東照社(久能山東照社)創建。

大工棟梁は中井大和守正清

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。

  • 1617年(元和3年)、朝廷より当社祭神(家康の神格化)に神号「東照大権現」が宣下。
  • 1624~1645年(寛永年間)、本殿・石の間・拝殿が檜皮葺から銅瓦葺きに変わる。
  • 1645年(正保2年)11月3日、朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下。「久能山東照宮」の通称が成立。

駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家。

近世以降

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画像は久能山山頂からの駿河湾。

  • 1868年(慶応4年)3月、神仏分離令
  • 1871年(明治3年)12月、本地堂(薬師堂)を廃し、境内の日枝神社を遷す。
  • 1871年(明治4年)5月14日、近代社格制度の制定。

  • 1873年(明治6年)2月18日、県社に列格。五重塔は競売に掛けられ解体。
  • 1888年(明治21年)5月1日、別格官幣社に列格。

  • 1946年(昭和21年)、社名を「久能山東照宮」とする。それ以前は「東照宮」。
  • 2006年(平成18年)、最近年に実施された社殿塗り替え事業の竣工。
  • 2010年(平成22年)12月、本殿・石の間・拝殿が、国宝に指定。

 西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像05

今回の旅では「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」にも行きました。

「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区
1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。

徳川慶喜公屋敷跡

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町,画像05

今回の旅では「徳川慶喜公屋敷跡」にも行きました。

「徳川慶喜公屋敷跡」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

久能山東照宮 – Wikipedia

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武田家に関する記事

徳川家に関する記事

まとめ

管理人が久能山東照宮に行くのは二回目。とはいってもはるか昔、小学校六年生の修学旅行で行ったっきりなので記憶にありません。

そういう意味では、初めてのようで新鮮でした。なので徒歩なのかロープウェイであったのかも記憶にありません(笑)。

スケールの大きさでは日光東照宮にはかなわないと思います。

ただ、家康公の御遺体が埋葬されたのは、久能山のほうが先であります。

帰ってから気づいたのですが、久能山東照宮には「武田菱」があったと思うのですが・・・。

もし何か情報がありましたら、管理人まで「Contact」のメールフォームにより連絡いただけると、小踊りして喜びます(笑)。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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