史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡

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関東に在住する管理人が「史跡・小山評定跡」に行ってみた。慌ただしく大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」放送日の前日に訪れた。事前に調査しないで行ったので、隣の敷地に「小山御殿広場」があるのを知らなかった。徳川家にとっては、縁起の良い場所になり、歴史的にも重要な場所である。小山評定にも触れています。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

「史跡・小山評定跡」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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史跡・小山評定跡を訪ねて

史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡,画像02

大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」に合わせるかのように、史跡・小山評定跡に行ってみた。

実は、この日は「犬伏の別れ」で有名な「新町薬師堂」にも行っていた。

足を伸ばして史跡・小山評定跡にも行ったという次第である。

「新町薬師堂」については、別の機会に記事投稿したいと思う。

上杉・会津征伐の途中、軍議が開かれ、上方へ引き返すことを決定した歴史的にも重要な評定であり場所である。

そう思うと感慨深いものがあった!

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

所在地および交通アクセス

史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡,画像03

史跡・小山評定跡は小山市役所敷地内(駐車場内)にある。

管理人は車で行ったのだが、小山市役所の駐車場に車を停めさせてもらった。

所在地、交通アクセス等は、

  • 住所:栃木県小山市中央町1-1-1
  • アクセス:小山駅から徒歩で8分

である。

小山御殿

史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡,画像04

小山市役所の隣には、「小山御殿広場」という小山御殿跡地がある。

小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際の休憩所、宿泊所として設けられた。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い前に行われた「小山評定」の吉例にならったものといわれている。

その後、小山御殿は台風で建物の一部が壊れてしまったため、1682年に古河藩によって解体されている。

小山評定再現劇

第36話「勝負」において「小山評定」の場面の登場を記念して、「小山評定再現劇」及び「パブリックビューイング」を開催。

「小山評定再現劇」は市民劇団「開運座」による。

  • 小山評定再現劇の日時:2016年9月11日(日曜)午後7時
  • 場所:史跡・小山評定跡

  • 真田丸「パブリックビューイング」の日時:2016年9月11日(日曜)午後8時
  • 場所:中央公民館第1研修室(小山市役所南側の建物)

第36話「勝負」の放送日当日です。

小山評定

【武将ゆかりの地】史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所,画像01

小山評定について。

  • 1600年(慶長5年)7月24日、徳川家康は下野小山に到着。三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者から知る。
  • 1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。

軍議をするために、三間四方の仮御殿を急造している。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る
徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死
忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

「真田丸」第36話「勝負」

「真田丸」第36話「勝負」では、わずかだが「小山評定」が取り上げられている。

でも何の説明もない。見る人が見れば分かる程度である。

「真田丸」第36話「勝負」感想。第二次上田合戦~超高速関ヶ原
犬伏の別れにより真田家は二分された。小山評定により、のちに東軍と呼ばれる会津征伐に従軍していた軍勢は、上方へ引き返すことを決定した。安房守・左衛門佐は上田城に戻り、急ぎ戦支度をした。上田城を中心に徳川秀忠率いる徳川軍と真田軍は再び激突した。そう、この一連の戦いは誰の目から見ても長引くはずだった・・・。

小山城

小山城。別名は祇園城、小山氏の居城。本多正純も入封,画像01

道路を挟んだ場所には小山城、別名は祇園城と呼ばれた小山城址がある。

小山城のあった場所は、現在、「小山城址公園」となっている。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

小山城。別名は祇園城、小山氏の居城。本多正純も入封
関東に在住する管理人が「小山城」に行ってみた。小山城(おやまじょう)は栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡・鷲城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。

新町薬師堂

【武将ゆかりの地】新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台,画像01

「犬伏の別れ」の舞台といわれる栃木県佐野市犬伏新町の「新町薬師堂」に行ってきました。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台。別れ橋・米山古墳
関東に在住する管理人が「新町薬師堂」に行ってみた。大河ドラマ「真田丸」第35話「犬伏」に遅れること一週間。念願の「新町薬師堂」だ。真田家ファンにとっては、聖地のような場所である。昼食は森田屋総本店。同日、足を伸ばして行った「史跡・小山評定跡」にも触れる。

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

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まとめ

大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」で小山評定が取り上げられるので行ったようなものです。

写真も撮りたかったし、本当に行ってよかったです。

管理人にとって、小山評定は特別なものになりました・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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