西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,アイキャッチ画像
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1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

もう一つの江戸無血開城といわれる「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地を訪ねて

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像01

駿府城に行ったので、「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」にも訪れた。

最初、場所がわからなかったが、なんとか辿り着くことでできた。

場所については、後ほど・・・。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像02

江戸無血開城というと西郷隆盛と勝海舟の会見が有名だが、もう一つの江戸無血開城が、その5日前にあった。

西郷隆盛と幕臣・山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)の会見が、ここ駿府で行われた!

※山岡鉄舟は幕末の三舟の一人。他は勝海舟、高橋泥舟。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地の概要

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像03

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう、皇女・和宮の元婚約者)を大総督として江戸へ向けて進軍を開始。

進路は東海道・東山道・北陸道の三道。東海道先鋒総督府参謀は西郷隆盛(吉之助)東山道先鋒総督府参謀は乾退助(のちの板垣退助)

  • 1868年(慶応4年)2月15日、有栖川宮熾仁親王は東征に際して、明治天皇から錦旗と節刀を授けられ京都を出発。
  • 1868年(慶応4年)3月5日、有栖川宮熾仁親王が駿府城に入城。参謀・西郷隆盛は伝馬町の松崎屋源兵衛の旅籠を宿所とした。
  • 1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷のもとを訪れ会見。

徳川慶喜から全権を委ねられた勝海舟は、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立ったという経緯があった。

この時、山岡は刀がないほど困窮していた。親友・関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。

官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。

山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願。

鉄舟は決死の覚悟で慶喜への寛大な処遇を強く主張し、西郷は慶喜助命のため7項目の条件を示した。

  1. 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
  2. 江戸城を明け渡すこと。
  3. 軍艦をすべて引き渡すこと。
  4. 武器をすべて引き渡すこと。
  5. 城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
  6. 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
  7. 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像04

結果、

  • 1868年(慶応4年)3月13日~14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。
  • 1868年(慶応4年)3月15日、江戸城総攻撃が中止。

鉄舟は、勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会っている。

江戸市街は戦火から免れたが、戊辰の役は場所をかえ続いた・・・。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地の所在地および交通アクセス

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像05

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地の所在地。西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地のマップ等を掲載します。

所在地、交通アクセス等は、

  • 住所:静岡県静岡市葵区御幸町3-21
  • JR東海道本線・東海道新幹線-静岡駅から徒歩約8分。
  • 静岡鉄道静岡清水線-新静岡駅から徒歩約3分。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像06

管理人は地図を見ながら行ったが、少し迷った。

大きな目印は江川町交差点にある「ペガサート」。「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」はペガサートの前にあります。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像07

そしてバス停留所「新静岡伝馬町」の前。

これで何とかたどり着けると思います・・・。

西郷どん(せごどん)第36話「慶喜の首」

2018年9月23日放送の西郷どん(せごどん)第36話「慶喜の首」で西郷隆盛(鈴木亮平)と山岡鉄舟(藤本隆宏)の会見が描かれた。

会見のシーンは「朝敵、慶喜が家来、山岡鉄太郎!火急の用があって、西郷吉之助殿に目通り願いたい!」のセリフから始まる。

ドラマの感想は省略するが、今回の山岡鉄舟役の俳優・藤本隆宏さんのキャスティングはイメージ通りであった。

そして実際の西郷隆盛は山岡鉄舟を以下のように評している。

「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり」

駿府城

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城,画像13

「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」からは駿府城が近い。

管理人の当初の目的は駿府城であった。もらった地図に、偶然あった「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」を訪れた次第であります。

駿府城に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。
駿府城より秀吉時代の金箔瓦・天守台石垣(野面積み)を発見。中村一氏とは
豊臣秀吉時代(城主・中村一氏)の駿府城は、「太閤軍記」や「家忠日記」に書かれたいたものの実態はわかっていなかった。駿府城跡は2016年(平成28年)より、静岡市が天守台発掘調査を行っていた。今回の発見は、その一環であり、歴史的大発見だ!

徳川慶喜公屋敷跡

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町,画像02

「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」から「徳川慶喜公屋敷跡」までは近い。

「徳川慶喜公屋敷跡」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

久能山東照宮

久能山東照宮。もとは久能寺、武田信玄により久能城。家康公の神廟,画像13

せっかくなので「久能山東照宮」にも行ってきました。

「久能山東照宮」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

久能山東照宮。もとは久能寺、武田信玄により久能城。家康公の神廟
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年(元和2年)に死去した後、遺命に埋葬された場所が、現在の久能山東照宮。家康公の神廟は遺命より西を向いているのは有名な話である。

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まとめ

タイトルでは、「もう一つの江戸無血開城」といっていますが、江戸無血開城に向けての下準備・下交渉の意味合いが強いかもしれません。

事実、この5日後、有名な江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談が執り行われている。

よって翌日の江戸城総攻撃は中止された。たしかに維新の歴史を変えたかもしれない。

しかし戊辰戦争と呼ばれる戦いは、終わらなかった・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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