名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる,アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 610(文字数:3,709文字)

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

関白・豊臣秀吉の再三の上洛命令に従わなかった北条家。北条家にとっては最悪の事態が待ち受けていた・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

豊臣秀吉による沼田領裁定

1582年(天正10年)の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)以降、真田家と北条家は沼田領を巡り争ってきた。

1588年(天正16年)8月、豊臣派の北条氏規(北条家当主・北条氏直の叔父)が上洛し、惣無事令の受け入れと秀吉に忠誠を誓い、北条家は秀吉の傘下に入った。

上洛した北条家重臣・板部岡江雪斎も沼田領全土が北条家領となれば北条家当主・北条氏直が上洛すると秀吉に言っている。

秀吉は北条氏政か北条氏直の上洛を再優先するために沼田領問題の解決に着手する。

1589年(天正17年)7月、関白・豊臣秀吉が沼田領の調停に乗り出した。沼田領は北条家に引き渡されることとなった。

が、真田家は「名胡桃城(なぐるみじょう)は祖先の墳墓の地である」と主張して、名胡桃城の譲渡を拒否。

名胡桃城址。沼田城の支城、歴史を変えた名胡桃城事件。小田原征伐に
行ってみるとよくわかりますが名胡桃城は、両側が切り立った天然の要害である。城郭構造は連郭式の山城。廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている。山城と行っても登山するわけではない。駐車場からはほぼ平城の感覚で見学が可能。名胡桃城といえば「名胡桃城事件」として有名である。

秀吉は津田盛月と富田一白を派遣し検分した結果、沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条家領、利根川を境として、名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田家領として安堵した。

真田家の代替え地は徳川家康が用意することとなっていた。代替え地は信州伊那郡。家康は沼田城の引き渡しに重臣・榊原康政を派遣している。

沼田城には北条家臣・猪俣邦憲、名胡桃城には真田家臣・鈴木重則(主水)が城代として入った。

北条家の狙いは沼田領全土の掌握だったため、この秀吉裁定は受け入れがたいものだった。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。

名胡桃城事件

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる,画像01

名胡桃城は「なぐるみじょう」と読む。

秀吉はそれまでも北条家に対して上洛を促していたが、裁定後に再度、北条家に対して上洛して臣下の礼をとるように催促する。

北条家側も秀吉の裁定を受け入れ、前当主・北条氏政の上洛を約束していた。しかし裁定からおよそ三ヶ月後、事件は起きた。

1589年(天正17年)11月、沼田城代・猪俣邦憲が、真田家臣・鈴木重則(主水)の家臣・中山九兵衛を調略して名胡桃城を奪取してしまった。

いわゆる「名胡桃城事件・名胡桃城奪取事件」である。

「加沢記」によれば、鈴木重則(主水)の妻の弟(異説もあり)である名胡桃城番衆・中山九兵衛が調略されて北条方となり、真田昌幸の偽の命令書を鈴木重則(主水)に渡して岩櫃城へ向かわせた。その隙に中山九兵衛が北条の軍勢を引き入れて乗っ取ったという。

だまされたことを知った鈴木重則(主水)は、名胡桃城に引き返したが遅かった。中山九兵衛と刺し違えようとしたが果たせずに沼田城下の正覚寺で自害したという。

真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

名胡桃城事件の影響

名胡桃城事件が起きた時、真田昌幸は上洛中であった。この事件のことは真田信幸・徳川家康・豊臣秀吉へと報告されている。

報告を受けた秀吉は激怒。

秀吉は惣無事令(私闘を禁じた法令)に触れるとして後北条家討伐を決意。

  • 北条家が停戦命令を無視して上野国で戦い続けた。
  • 上洛要請に応じていない。
  • 名胡桃城奪取事件が起きた。

以上の理由が惣無事令に違反するとしている。

意外なことだが、北条家側は事態の深刻さを理解していない。

北条家は名胡桃城奪取事件について以下のように弁明している。

  • 1590年(天正18年)正月中に北条氏政が上洛する。
  • 秀吉の母・大政所が徳川家康の人質になったような保証がほしい。
  • 北条氏政が人質となり、責任をとらされるか北条家の国替という噂がある。
  • 使者・石巻康敬の拘留は不当で、真田昌幸の言い分だけを信じるのは無念。

北条家中で唯一人、豊臣派の北条氏規が書状で徳川重臣・酒井忠次宛てに「北条氏はもはや末期である」旨を伝えて嘆いている。

1589年(天正17年)11月21日、秀吉は北条家の弁明を全て却下して真田昌幸に対して以下のように説明した。

  • 猪俣邦憲ら犯人を成敗しないかぎり北条家を赦免せず。
  • 国境の諸城に軍勢を配備し、1590年(天正18年)春まで確保すること。
  • 必要があれば、小笠原貞政や北信濃の上杉軍を派遣する。

  • 1589年(天正17年)11月24日、「宣戦布告状」と称される朱印状を北条氏直に送った。諸大名にも通達。
  • 1589年(天正17年)12月、北条氏政・氏直父子が徳川家康に秀吉への取り成しの要望を書状で送った。家康は上洛に向け出発していた。
  • 1589年(天正17年)12月13日、北条征伐の動員令が下された。

そして1590年(天正18年)の小田原征伐に至り、後北条氏は滅亡した。

大河ドラマ「真田丸」における名胡桃城奪取事件

大河ドラマ「真田丸」第22話「裁定」で、秀吉の沼田裁定・名胡桃城奪取事件は描かれている。

ドラマのタイトルどおり沼田裁定はじっくり描かれ、名胡桃城奪取事件に関しては事件が起きた体になっていた。

ドラマの感想記事でも書いたが、自害する名胡桃城代・鈴木主水(鈴木重則)について少し書く。

主水には息子・鈴木忠重がいた。忠重はのちに松代真田家の重臣に名を連ねる。最期は信之が病没後に殉死。享年84。

信之・忠重の主従関係の話である。

「真田丸」第22話「裁定」感想。沼田領裁定~名胡桃城奪取事件
関白・豊臣秀吉の沼田領裁定により、天正壬午の乱以降の沼田領問題は解決したかに見えた。北条氏政は沼田領裁定を不服とした。北条家では上洛要請に関しても軽く見ていたようであり、事態の重大さを感じていなかったようである。そもそも氏政は秀吉を軽く見ていた。関東の覇者たる自負がある氏政にとっては仕方がないように思えるが・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

名胡桃城 – Wikipedia

名胡桃城事件と北条氏の滅亡 | 戦国ヒストリー

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

名胡桃城奪取事件の有無自体も確証はないようであるが、小田原征伐は決行され後北条氏は滅亡した。

秀吉の沼田領裁定自体が秀吉の策略であるなんて説もある。歴史の面白いところでもあります。

後北条氏が滅亡した後、沼田領は真田家に安堵され、名胡桃城は廃城となった。実際に使用されたのは約10年間であった。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。