真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。
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真田信幸(信之)の次男・真田信政について記事投稿します。
それではいってみよう!
真田信政
真田信政(さなだのぶまさ)。1597年(慶長2年)11月~1658年(万治元年)2月5日。父は真田信幸(信之)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。
兄弟は信吉、信重。信濃松代藩主。官位は従四位下・侍従兼大内記。
正室は稲垣重綱の娘。側室は浜松の局、小野国子(2代目小野お通)。
子は信就、信守、信武(大学)、信福(四男、早世)、幸道、娘(遠山政亮正室)、娘(小出有重正室)、娘(土岐頼長室)、娘(鎌原重俊室)、娘(青山忠雄正室)ら。
墓所は長野県長野市松代町松代の長国寺。戒名は円陽院殿威良一中大居士。
父・信之との対立
1597年(慶長2年)11月、真田信幸(信之)の次男として生まれる。母は小松姫(本多忠勝の娘)。
- 1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに出陣。補佐したのは矢沢頼康。
- 1617年(元和3年)6月、従五位下・大内記に叙任。
大坂の陣では、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄・信吉と共に敗走。小山田茂誠も息子・之知と共に従軍。
官位は年月日不詳ながら従四位下に昇叙、侍従を本官に大内記を兼任。
- 1622年(元和8年)10月、父・信之が松代城転封。領内で1万7000石を分知され大名に列する。
- 1634年(寛永11年)、沼田城主である兄・信吉が死去。甥・熊之助が相続。
幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。
- 1639年(寛永16年)、甥・熊之助が早世。沼田藩主となる。
- 1656年(明暦2年)、父・信之が隠居。松代藩の家督を相続。
沼田藩主となった時、沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟・信利に分与、領有していた松代藩内分の1万7000石は弟・信重に譲った。
1658年(万治元年)2月5日、家督を相続して、わずか2年で死去。
なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。
実のところ、父・信之は何度も幕府に隠居願いを出していた。将軍・徳川家綱が幼少などの理由で認められなかったのである。
信之と信政はすれ違ったままであった・・・。
信政の遺言状には、父・信之のことは一切書かれていなかった。
信政の後継
信政は、長男・信就を故あって相続対象から外した。
1645年(正保2年)、次男・信守は異母弟の三男・信武(大学)を殺害して自刃。
四男・信福は夭折するなど後継者に恵まれなかった。
死の直前に生まれたばかりの幼少の六男・右衛門(幸道)を後継指名している。
支藩で幸道従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あった。
最後には、信政の遺言状や祖父・信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門(幸道)の相続が決定となった。
「真田丸」では高畑裕太の予定
「真田丸」で真田信政は、高畑裕太の予定であった。
例の事件で、全てが白紙になった。せっかくの親子共演のはずが・・・。
一度、撮影も行われていたらしい。シーンは代役を立てて撮り直し。
母・高畑淳子は真田昌幸の正室・薫役で出演中。真田丸に関しては、今後も出演するらしい。
ちなみに「スタジオパークからこんにちは」の出演は辞退している。
代役は大山真志に決定
「真田丸」で真田信政を演じるのが大山真志に決定した。
例の事件があった後であるが、大山真志さんには頑張ってほしい。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田信幸(信之)・信繁(幸村)兄弟と比べると、信吉・信政兄弟は物足りない。比べること自体が間違ってるのかもしれないが。
もしかしたら父・信之が長寿で名君というのは、のちの世代にとって悲劇だったもかもしれない。
のち真田家からは、そんな気がしてなりません・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。