鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死

鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死,アイキャッチ画像
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忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

「三河武士の鑑」と称された忠義の三河武士・鳥居元忠。管理人のイメージは「伏見城の戦い」が強烈であるが・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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鳥居元忠

鳥居元忠(とりいもとただ)。1539年(天文8年)~1600年(慶長5年)8月1日。徳川家家臣。徳川十六神将。松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男。

三河碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。

兄弟は忠宗、本翁意伯、忠広、女(三宅政貞室)。子は康忠、忠政、成次、忠勝、忠頼、忠昌、娘(土岐定政室)、娘(戸沢政盛室)。

長兄・忠宗は1547年(天文16年)の渡の戦いで戦死し、次兄・本翁意伯は出家していたため、1572年(元亀3年)に父が死去すると、家督を相続。

高天神城の戦いまで

鳥居元忠が参戦した高天神城の戦いまでを簡単にまとめた。

  • 1558年(永禄元年)-寺部城攻め
  • 1570年(元亀元年)6月-姉川の戦い
  • 1572年(元亀3年)12月-三方ヶ原の戦い
  • 1575年(天正3年)5月-長篠の戦いでは石川数正とともに馬防柵の設置を担当
  • 1581年(天正9年)-高天神城の戦い

諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残している。

石川数正。徳川家を出奔して豊臣秀吉の家臣、晩年は信濃・松本へ
第一次上田合戦の最中である1585年(天正13年)11月、とつぜん石川数正は徳川家康のもとを出奔して豊臣秀吉の家臣になる。これにより徳川家は真田攻めから撤退。出奔の理由は推測の域をでていない。数正出奔により徳川家は三河以来の軍制を武田流に変更。数正は信濃・松本を与えられ、松本城を築城している。この地で生涯を終える。

天正壬午の乱

1582年(天正10年)、徳川家康の背後を襲おうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵で撃退し北条勢約300を討ちとっている。黒駒合戦である。

甲斐都留郡(山梨県都留市)を与えられ、初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる。

家康からの信任厚く、朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、家康直属の奉行人と言えども元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できない支配権限が認められていた。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。

第一次上田合戦~下総国・矢作城主

下総国・矢作城主になるまでを簡単にまとめた。

  • 1585年(天正13年)-第一次上田合戦-大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとしたが撃退される。
  • 1590年(天正18年)-小田原征伐-岩槻城攻め

後北条氏滅亡ののち徳川家康が関東に移封された。

それにより下総国・矢作城4万石を与えられる。常陸国・佐竹氏や東北地方の諸大名の南下に対する抑えである。

元忠には引き続き強い支配権限が与えられていた。

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

豊臣秀吉の官位推挙を断る

1586年(天正14年)に家康に従って上洛した際、秀吉からの官位推挙の話が度々あったが

「某は才無き者でござれば、秀吉公と家康公の両君の恩恵を受けて、二君へ忠を尽くす術を知りませぬ。殊に三河譜代者にて、万事粗忽でござれば、秀吉公の御前に出仕するべき器量もござりませぬ」

と言って断っている。

なんとも鳥居元忠らしい話ではないか。

元忠は幼少の頃から家康に仕えており、度々功績を上げたが生涯感状をもらっていない。

感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えて受け取らなかったという。

伏見城の戦い

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やはり鳥居元忠といったら「伏見城の戦い」だろう。

1600年(慶長5年)、家康が会津征伐のため出兵すると伏見城を預けられる。

1600年(慶長5年)6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わしている。家康は伏見に残す人数は3000を考えていたが、元忠は天下を取るには一人でも多くの家臣が必要であると言って断っている。

五奉行・石田三成は家康に対して挙兵。伏見城は前哨戦の舞台となった。元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる。

元忠は最初から玉砕を覚悟で三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し戦い続けた。

13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死。享年62。

元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人・佐野四郎右衛門が、知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

血天井

伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。

明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養。

床板は「血天井」として京都市の養源院 をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市・興聖寺に今も伝わる。

馬場信春の娘

武田氏滅亡後、元忠は武田家重臣・馬場信春の娘を本妻(側室?)にしている。

家康には「抜け目のない男よ」と高笑いで許された。

元忠と馬場氏の間には3男1女をもうけたと伝えられている。

鳥居元忠の子孫

家康は忠実な部下の死を悲しんだ。

嫡男・忠政はのちに磐城平藩10万石から山形藩24万石の大名に昇格。

元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、江戸時代にそれぞれ不行跡として改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れている。

元忠の4男・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいる。その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)において主君に忠死した大石良雄であった。

他に滝廉太郎作曲の「箱根八里」の作詞者である鳥居忱も子孫である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

鳥居元忠 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

豊臣秀吉からの官位の推挙、武田家重臣・馬場信春の娘など知らないことがあって勉強になりました。

大河ドラマ「真田丸」で「伏見城の戦い」を描いて欲しいのものですが、どうでしょう・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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