「 羽柴(豊臣)家 」一覧

サン・フェリペ号事件~日本二十六聖人殉教、秀吉による信徒への弾圧

サン・フェリペ号事件~日本二十六聖人殉教、秀吉による信徒への弾圧

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件について。日本二十六聖人殉教事件は太閤・豊臣秀吉が唯一行ったキリスト教徒への直接的迫害である。豊臣秀次事件の直後に起きた事件であり、対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などが関係して複雑化している。日本二十六聖人殉教事件はサン・フェリペ号事件の直後に起きている。

醍醐の花見。秀吉の最晩年における花見の宴、北野大茶湯と双璧を成す

醍醐の花見。秀吉の最晩年における花見の宴、北野大茶湯と双璧を成す

太閤・豊臣秀吉の最後の大イベント。それが醍醐の花見である。花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には前田利家の名が見えるのみ。前田利家の正室・まつのエピソードも有名である。「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には花見の想像図が描かれている。

太閤・豊臣秀吉の死因。毒殺?それとも脚気・大腸癌・腎虚あたりか?

太閤・豊臣秀吉の死因。毒殺?それとも脚気・大腸癌・腎虚あたりか?

太閤・豊臣秀吉の死因については多くの説がある。死因についての記録が残っていないのが原因であるのだが、前から不思議には思っていた。死因についての記事ではあるが、特に毒殺説にスポットをあてている。根拠はないが、毒殺説ではないかと管理人自身は思っているからだ。他の諸説も記述している。

慶長伏見地震。伏見城天守は倒壊、歌舞伎・落語「地震加藤」の題材

慶長伏見地震。伏見城天守は倒壊、歌舞伎・落語「地震加藤」の題材

大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」で伏見城の絵図面が登場したので、慶長伏見地震を調べてみた。死者は1,000人を超え、伏見城でも600人が圧死したと伝わる。この地震での著名な死者は加賀爪政尚、横浜一庵。慶長伏見地震は歌舞伎・落語「地震加藤」の題材にもなっている。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易

福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。秀次事件で処刑

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。秀次事件で処刑

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。子は隆清院(真田信繁の側室)。豊臣秀次事件では、父・菊亭晴季も連座したとして越後に流刑になっている。一の台は連座の罪で処刑されている。連れ子には、おみや(のちのお美屋御前)がいる。秀次の側室とあるが、信憑性は薄いようである。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い

1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える

島左近(清興)といえば、三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕えたことで有名である。俸禄・2万石は破格の待遇だ。三成が佐和山19万石になる前に仕えている説が有力。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。

細川ガラシャ。父は明智光秀、細川忠興の正室。最期は壮絶

細川ガラシャ。父は明智光秀、細川忠興の正室。最期は壮絶

細川ガラシャはキリスト教信徒(キリシタン)として有名。父は明智光秀、細川忠興の正室。本能寺の変後、しばらく幽閉されていたことも有名である。しかし細川ガラシャといえば、やはり壮絶な最期ではないだろうか。美談として語られることが多く、いろいろな題材として取り上げられている。最期については、当時の書物で書かれ方が違う。

長宗我部盛親。関ヶ原では戦闘に参加できず、寺子屋で生計を立てる

長宗我部盛親。関ヶ原では戦闘に参加できず、寺子屋で生計を立てる

管理人が思う長宗我部盛親は少し可哀想な人物である。特に関ヶ原の戦いなのだが、結果だけ見ると成り行き上、西軍として参加している。本戦でも「宰相殿の空弁当」でも有名な毛利秀元、東軍に内応した吉川広家のせいで動くに動けなかった。戦闘自体に参加できていない。そんな長宗我部盛親の最期は立派であったと伝わる。