石川数正。徳川家を出奔して豊臣秀吉の家臣、晩年は信濃・松本へ

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第一次上田合戦の最中である1585年(天正13年)11月、とつぜん石川数正は徳川家康のもとを出奔して豊臣秀吉の家臣になる。これにより徳川家は真田攻めから撤退。出奔の理由は推測の域をでていない。数正出奔により徳川家は三河以来の軍制を武田流に変更。数正は信濃・松本を与えられ、松本城を築城している。この地で生涯を終える。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

石川数正の徳川家出奔理由を知りたかったのですが・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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石川数正

石川数正(いしかわかずまさ)。1533年(天文2年)~1593年(文禄2年)。父は石川康正、母は松平重吉の娘で三河で生まれる。

通称は与七郎。別名は康輝、吉輝。官位は従五位下、伯耆守、出雲守。

家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏の祖となったという。数正の家は三河国に下った石川氏の与党である。

石川清兼は祖父、石川家成は叔父、石川康通は従弟になる。

徳川家の家臣として

徳川家康が駿河国の今川義元の人質時代から近侍として仕えている。

  • 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いにより松平元康(家康)が独立。石川数正は今川家の新当主・今川氏真と交渉し、人質の家康の嫡男・信康と正室・築山殿を取り戻す。
  • 1561年(永禄4年)、家康は石ヶ瀬で織田信長と紛争。数正は先鋒で活躍。
  • 1562年(永禄5年)、清洲同盟成立に大きく貢献。
  • 1563年(永禄6年)、三河一向一揆が勃発。父・康正が家康を裏切る。本多正信も一時的に家康の元を去っている。数正が浄土宗に改宗。

家康の命で、石川宗家の家督は叔父・石川家成(家康の従兄弟)が相続。酒井忠次、石川家成らに次いで重用され、家老に任じされている。家康の嫡男・信康が元服すると後見人に就任。

  • 1579年(天正7年)、家康の嫡男・信康が切腹。数正が岡崎城代となる。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変・清州会議により織田家重臣・羽柴秀吉が台頭。数正が秀吉との交渉役になる。
  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。数正も参加している。
  • 1585年(天正13年)閏8月、徳川家は真田家の上田城に侵攻。第一次上田合戦である。
  • 1585年(天正13年)11月13日、とつぜん家康から出奔し、秀吉のもとへ逃亡。これにより徳川家は完全に上田城攻めから撤退。

石川数正が徳川家を出奔した理由は謎であり、はっきりとした理由は今でも解明されていない。現在推測される説を、のちほど記述する。

徳川家康は石川数正出奔で大きく動揺し、三河以来の軍制を武田流に改めている。武田の遺臣達が、この軍制改革に大きく貢献している。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。
羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

豊臣家の家臣として

石川数正。徳川家を出奔して豊臣秀吉の家臣、晩年は信濃・松本へ,画像01

石川数正は1585年(天正13年)3月までに名を康輝(やすてる)と改名。

秀吉の家臣となった数正は、河内国内で8万石を与えられ、出雲守・吉輝と改名している。

  • 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏滅亡。徳川家康の関東移封にともない、信濃松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封。
  • 1593年(文禄2年)、死去。享年61。

数正は松本に「松本城」を築城。街道につないで流通機構のルートを掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備をしている。

家督は長男の康長が継いでいるが、遺領10万石のうち、康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、三男の康次は5,000石をそれぞれ分割相続している。

徳川家出奔の理由

石川数正が徳川家を出奔した理由は、はっきり解明されていないが推測される説を書いてみる。

秀吉との関連

  • 秀吉と交渉してるうち、秀吉の器量に惚れ込んだ。
  • 人誑し(ひとたらし)で有名な秀吉得意の恩賞にめがくらんだ。
  • 数正が徳川家に臣従させた小笠原貞慶が秀吉に離反したため、その責任を追及された。
  • 対秀吉強硬派・本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると疑い、徳川家にいずらくなった。

松平信康との関連

  • 松平信康切腹事件以来、徳川家康と後見人・石川数正が不仲になった。
  • 松平信康切腹事件以来、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため。

その他

  • 石川宗家の家督は叔父・石川家成が相続し、自分が継げず、家康を恨んだ。
  • 家康としめしあわせ、徳川家の為に犠牲となった形で豊臣家に投降したふりをした。

などがあるが、現時点では解明されていない。

「真田丸」では俳優・伊藤正之が演じる。

「真田丸」では、俳優・伊藤正之が演じてます。

第14話「大坂」では徳川家を出奔する石川数正を好演。

ドラマでは真田信尹(栗原英雄)が牢から石川数正(伊藤正之)を調略という飛び道具を使っている。

徳川の刺客から身を隠している数正(伊藤正之)と源次郎信繁(堺雅人)が面会するシーンは良かった!

大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」感想。出奔した石川数正
石川数正出奔により徳川家康は真田攻めから撤退した。数正出奔の背後には真田昌幸の影が。弟・信尹をつかって石川数正を調略した。上杉景勝の上洛に同行することになった源次郎信繁。そこで石田治部少輔三成と出会う。三成は直江兼続がいい人に見えるくらい高飛車だった。源次郎信繁は大坂城に驚き、いよいよ関白・秀吉に面会するのだが・・・。
真田信尹。兄・真田昌幸の本家に尽力し、旗本・真田家を興す。
真田幸綱(幸隆)の四男であり、同母兄には信綱・昌輝・昌幸がいます。甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、加津野市右衛門尉信昌と称する時期もあった。武田家滅亡後は、真田本家のために尽力する。自身は、北条・徳川・蒲生・ふたたび徳川に仕える。大坂の陣では豊臣側の真田信繁を誘ったり、信繁の首の確認をする逸話が残されている。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

石川数正 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

石川数正の徳川家出奔理由は諸説あり、はっきりとした理由は解明されていません。

2016年放送の大河ドラマ「真田丸」では、真田昌幸(草刈正雄)の弟・真田信尹(栗原英雄)が調略するという設定らしいのですが・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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