関ヶ原の戦いでの西軍敗北の要因を考えた時、「小早川秀秋の裏切り」「宰相殿の空弁当」は大きな原因といえる。そのどちらにも毛利家一門が関わっているのが面白いといえば面白い。成り行き上、西軍に参加した長宗我部盛親は可哀想である・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
歴史とは残酷なものなのかもしれない・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
宰相殿の空弁当
宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」における毛利氏の去就にまつわる故事である。「空弁(からべん)」ともいわれる。
宰相とは毛利秀元の官職・参議のことで、「参議」は唐名で宰相という。
西軍の総大将・毛利輝元
関ヶ原の戦いを前に、五大老の一人である毛利輝元は、石田三成や安国寺恵瓊の要請により西軍の総大将となる。
これにより、豊臣秀頼を保護する名目で大坂城に入城。徳川方である大坂城の留守居役を追い出した。
輝元は、養子・毛利秀元を大将として派遣し、自らは大坂城から出ようとしなかった。補佐には、吉川広家を任じている。
関ヶ原の戦い
吉川広家は西軍が敗れると予想していて、徳川家の重臣・榊原康政、本多忠勝らと単独停戦の交渉を進めていた。
関ヶ原の戦いでは、毛利軍は徳川家康本陣の背後である南宮山に布陣。毛利秀元は、徳川軍の背後から攻撃するつもりであった。
しかし先陣・広家が出撃に反対し、道を空けないため動けずにいた。毛利軍の背後に陣取った長宗我部盛親は毛利家に対して出陣要請をしている。
これに対して秀元は、「今、兵に弁当を食べさせている」と苦しい返答をした。
そこから秀元の官職・参議(唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれている。
毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できていない。南宮山の総勢は3万3,000もの大軍であった。
毛利家一門・小早川秀秋が裏切り、東軍として戦闘を開始。東軍に寝返るものが続出したため、関ヶ原の戦いは西軍が敗北。
小早川秀秋の裏切りと南宮山が機能しなかったことは、西軍敗北の大きな要因となった。
のち大坂城の毛利輝元は本国へ引き上げた。
結果、毛利・吉川・小早川は徳川家康と戦うことなく関ヶ原の戦いを終える。
関ヶ原の戦い後
戦後、徳川家康は毛利氏の所領のうち周防国と長門国(現在の山口県)以外の全ての領地を没収。毛利氏は120万石の大大名から30万石の大名へと転落(長州藩)。
そして毛利氏と関係のある小早川秀包や安国寺恵瓊を処分している。
最初の予定では、家康は毛利氏を取り潰すつもりで、広家に周防・長門を与える意向であった。
しかし広家が家康に嘆願し、このような処分に落ち着いたといわれる。
のち広家と徳川方の交渉の事実を知った毛利秀元は憤激。
秀元の子孫である長府藩と広家の子孫である岩国領主家の間には、長く確執が残ることになる。
毛利家の新年の挨拶
徳川氏に対する毛利氏の恨みも大きかった。
毛利氏の新年の挨拶では、「(徳川討伐の戦を)いつ始めましょうか?」
「まだ時期尚早である」と言うのが恒例になったといわれる。
これは確証のある史料に基づく話ではないが、有名な話ではある。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
考えてみると関ヶ原の戦いは、毛利家一門の去就が全てであった。
金吾中納言こと小早川秀秋の裏切り、「宰相殿の空弁当」。
治部殿と刑部殿が好きな管理人にとっては辛い出来事である。
しかしこれも運命なのかもしれない・・・。歴史とは残酷なものであることを痛感する。
そして毛利家の長州藩は、幕末の倒幕運動の中心となる・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。