真田幸綱(幸隆)の四男であり、同母兄には信綱・昌輝・昌幸がいます。甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、加津野市右衛門尉信昌と称する時期もあった。武田家滅亡後は、真田本家のために尽力する。自身は、北条・徳川・蒲生・ふたたび徳川に仕える。大坂の陣では豊臣側の真田信繁を誘ったり、信繁の首の確認をする逸話が残されている。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
真田昌幸の弟である真田信尹については、あまり知らなかったので調べちゃいました。
もしも知らなかった人は、管理人と一緒に勉強しよう!(笑)。
それではいってみよう!
真田信尹
真田信尹(さなだのぶただ)。1547年(天文16年)?~1632年(寛永9年)5月4日。武田家家臣・真田幸綱(幸隆)の四男。幼名は源次郎。兄弟は同母兄の信綱、昌輝、昌幸。
母は河原隆正の妹・恭雲院。正室は馬場信春の娘(馬場殿)。子は幸政、信勝。
主君・武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となる。隠岐守を自称し、加津野市右衛門尉信昌と称する。
墓所は山梨県北杜市長坂町の龍岸寺。
1571年(元亀2年)1月、武田信玄が北条綱成の駿河・深沢城を陥落させる際には、綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取り、大きな武功をあげている。
真田姓に復姓
1582年(天正10年)3月、武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名。
当初は北条氏に属するが、1584年(天正12年)から徳川家康に仕えた。兄・真田昌幸が北条家から徳川家に臣従するとき、尽力する。
徳川家では5000石。のちに1万石に加増されるが浪人となる。池田輝政を介して会津・蒲生氏郷に5000石で出仕。
1598年(慶長3年)、ふたたび徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参。1595年(文禄4年)に蒲生氏郷が死去して、蒲生騒動が起きたことによる。
関ヶ原の戦い以降
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げる。1200石を加増されて5200石になる。
大坂の陣では、徳川家康が真田信尹に命じて「信濃国10万石を知行する」と言って豊臣側についた真田信繁を誘った逸話がある(信尹ではなく真田信之という説や、石高も信濃40万石という説あり)。
また、信繁の首の確認を行ったのは信尹であるとする話が伝わっている。
1632年(寛永9年)5月4日、病死。享年86。子・真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕える。
真田本家が生き残るために情報を送り続け、尽力したと言われている。
「真田丸」では俳優・栗原英雄が演じる
ドラマでも兄・真田昌幸のために上杉家、北条家にと、動いているのが描かれてます。第七話では、上杉家に味方している春日信達(高坂昌元)とのシーンがありました。
第八話からは、真田源次郎信繁とともに春日信達(高坂昌元)を調略すると思われます。たのしみですねー!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田昌幸の弟である真田信尹について知ることが出来ました。大河ドラマ「真田丸」に感謝です。
「真田丸」で真田信尹をどのように描くかも楽しみです!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。