真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。
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NHK大河ドラマ「真田丸」を視聴するにあたって、真田家の祖といわれる真田幸隆と真田昌幸親子の官位の記事投稿をします。
それではいってみよう!
真田家の祖、真田幸隆
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿・真田頼昌の子として生まれたとされている。いきなりあやふやだなー(笑)。
幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。
幸隆が合戦に参加したという資料はないものの、武田信虎の海野平合戦により、海野一族は敗北。箕輪城主長野業正を頼り上野に逃れている。
武田晴信(信玄)が父・信虎を駿河に追放し、家督を相続すると関東管領上杉憲政と和睦。真田幸隆は武田晴信(信玄)に帰属し、旧領を回復する。その後武田家の数々の合戦に参加。
1559年(永禄2年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。最近の研究では、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点箕輪城代であった時期もあるようである。このように譜代衆並みの扱いを受けているという説もある。
1567年(永禄10年)、病気のために家督を信綱に譲って隠居。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動。
1574年(天正2年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺にある。
真田幸隆は、真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
弾正忠を名乗る。
武田二十四将
ここで武田二十四将を列挙します。。ただ諸説あります。。。
秋山信友、穴山信君、甘利虎泰、板垣信方、一条信龍、小畠虎盛(小幡虎盛)、小幡昌盛、飯富虎昌。
小山田信茂、高坂昌信(春日虎綱)、三枝守友(三枝昌貞)、真田幸隆(真田幸綱)、真田信綱、武田信繁、武田信廉、多田満頼。
土屋昌次(昌続)、内藤昌豊、馬場信春、原虎胤、原昌胤、山県昌景、山本勘助(菅助)、横田高松。
といわれている。
しかし真田昌輝、武藤喜兵衛(真田昌幸)たちも描かれている。
戦国三弾正
そして戦国三弾正を解説。戦国三弾正とは、戦国時代の大名武田信玄に仕え、弾正忠を名乗った武将の総称。
- 逃げ弾正:高坂昌信
- 槍弾正:保科正俊
- 攻め弾正:真田幸隆
真田昌幸親子の官位
真田昌幸は真田幸隆の三男でありますが、兄たちの戦死により真田家の家督を継ぎます。そして真田昌幸、真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)の官位です。
真田昌幸:従五位下安房守。
真田信繁(幸村):従五位下左衛門佐。
真田信幸(信之) :従五位下伊豆守、従四位下侍従。
真田昌幸に関しては、1994年(文禄3年)に太閤・豊臣秀吉が関白・豊臣秀次に叙位の指示をしてます。これにより正式となる。
1994年(文禄3年)11月2日、真田信之が従五位下・伊豆守、真田信繁(幸村)が従五位下・左衛門佐を叙位叙任。
さすが松代藩十万石の祖、真田信幸(信之)である。官位では一番高いですねー。まあ長寿だったからなー(笑)。
ちなみに真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)ともに「豊臣姓」を下賜されてます。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田幸隆と真田昌幸親子の官位の視点から記事投稿をしてみました。大河ドラマ「真田丸」を見るにあたっての参考になればと思います。。
ついでに「武田二十四将」「戦国三弾正」を調べてみました。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。