隆清院は真田信繁(幸村)の側室であり、父は豊臣秀次。母は秀次の継室(正室)・一の台(菊亭晴季の娘)。信繁(幸村)とは1男1女をもうけている。のち直(なほ)は出羽亀田藩主・岩城宣隆の室となり、お田の方と呼ばれる。少し豊臣秀次事件に触れてみる。
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真田信繁(幸村)の側室である隆清院について記事投稿する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
隆清院
隆清院(りゅうせいいん)。?~1633年(寛永10年)?。父は豊臣秀次。母は秀次の継室(正室)・一の台(菊亭晴季の娘)。真田信繁(幸村)の側室。
子はお田の方(直・信繁の五女)、幸信(信繁の三男)。
豊臣秀次事件では秀次の子供、4男1女が処刑されている。女子で処刑されたのは露月院だけ。
父・秀次は切腹。母・一の台も処刑されている。隆清院は難を逃れている。
真田信繁(幸村)の側室
隆清院は九度山で蟄居中の信繁と出会い側室となります。
- 1604年(慶長9年)、信繁との間に直(なほ)が生まれる。
- 1614年(慶長19年)10月、信繁が大坂城に入城。隆清院と直(なほ)も同行。
- 1614年(慶長19年)12月、豊臣方と徳川方が和睦。
この頃、隆清院が信繁の子を宿しているのが明らかになり、信繁は大坂城から脱出するようにすすめている。
- 1615年(慶長20年)3月、隆清院と直(なほ)が秀次の母・瑞竜院日秀(とも)のもとに身を寄せる。
- 1615年(慶長20年)7月14日、左次郎が生まれる。
秀次の母・瑞竜院日秀(とも)は、京都嵯峨野の瑞龍院で尼僧をしていた。
のちの隆清院の消息は諸説あり、姉の嫁ぎ先である梅小路家を頼ったともいわれている。
1633年(寛永10年)、隆清院が死去。葬儀は一の台御局の実家・菊亭家で行われたといわれる。
お田の方
直(なほ)は出羽亀田藩主・岩城宣隆の室となり、お田の方と呼ばれる。
弟・左次郎は、お田の方が引き取っている。
お田の方は、妙慶寺を建立し、隆清院の墓碑をおいて供養した。
三好左馬之助幸信
左次郎は三好の姓を名乗った。
秀次は一時期、三好家の養子となり家督相続をしている。
左次郎は姉・お田の方の嫁ぎ先である出羽亀田藩主・岩城宣隆に引き取られた。
元服して「三好左馬之助幸信」と名乗り、亀田藩に仕えた。
享年53。墓所は秋田県妙慶寺。
豊臣秀次事件
豊臣秀次事件について。
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。
秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。
秀次という人物がいなかったかのように・・・。
大河ドラマ「真田丸」では岸井ゆきのが演じる
大河ドラマ「真田丸」では「たか(隆清院)」を岸井ゆきのが演じる。
岸井ゆきのは大河ドラマ初出演で、東京ガスのCMなどに出演。
第39話「歳月」
ルソンから秀次(新納慎也)の娘・たか(岸井ゆきの)が帰ってきた。
第28話「受難」では、機転を利かせ信繁(堺雅人)が「たか(岸井ゆきの)」を側室にして、ルソンへ逃している。
それ以来の出番になった。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
真田、ましてや豊臣は名乗れないよな。そう考えると三好はいい感じだと思う。
隆清院については、あまり知らなかったので勉強になった。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。