真田丸、真田信繁(幸村)と六文銭

真田信繁(幸村)と六文銭-アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 648(文字数:4,089文字)

2016年1月10日から放映される大河ドラマ「真田丸」を見るにあったて、真田信繁(幸村)を調べてみた。近年ゲームキャラクターとしての真田幸村は凄まじい人気です。「真田十勇士」などの人気も手伝ってキャラクターが実際の真田幸村を超越してるように思われます。こんなこというと夢を壊すようですが。。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

キャラクターとしての真田信繁(幸村)ではなく、実際の真田幸村を管理人の感想をまじえながら、記事投稿したいと思います。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

大河ドラマ「真田丸」

脚本は三谷幸喜、NHK大河ドラマでは2004年度放送の『新選組!』以来2度目となります。2010年以来続く原作なしのオリジナル作品である。

主人公は大河ドラマでは初となる真田信繁(幸村)。タイトルは大坂の陣で信繁が築いたとされる出城「真田丸」に由来し、また真田家を「戦国の荒波に立ち向かう一艘の船」に例えた掛詞としている。

脚本、三谷幸喜かーって感じです(笑)。それから主演は真田信繁(幸村)に堺雅人です。

六文銭

真田家家紋-六文銭

最初に「六文銭」について。

旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。

これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれてます。

「六文銭」は真田家の家紋でもあります。

出生

1567年(永禄10年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿。父昌幸は真田幸隆の三男であり、真田氏を継ぐ立場ではありませんでした。

名の「信繁」は武田信玄の弟武田信繁より名付けたそうです。父・昌幸は、1575年(天正3年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継ぎました。

それでも武田氏が滅亡するまでは、真田氏は独立した大名ではありませんでした。

真田家の祖、真田幸隆と真田昌幸親子の官位を調べた!
真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。
武田信繁とは?真田信繁(幸村)の名前の由来です!
武田信繁は武田晴信(信玄)の弟であり、武田家の副将格、御一門衆筆頭、武田二十四将の一人である。官職は左馬助(自称?)。和歌などの教養にも優れ、文武ともに優れた人物だったようである。1561年(永禄4年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死する。享年37。長尾景虎(上杉謙信)もその死を惜しんだという。

真田氏の自立

織田信長によって武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順し、所領を安堵されています。しかし本能寺の変で織田信長が横死すると、武田遺領は上杉氏、北条氏、徳川氏によって狙われます。真田氏もこの争いに巻き込まれます。

真田氏は上杉氏に帰属して自立し、1585年(天正13年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っています。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれています。

織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立した大名として自立します。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えます。

天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。1594年(文禄3年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

関ヶ原の合戦

関ヶ原の合戦直前の徳川家康による上杉征伐に参加しています。そして関ヶ原の合戦前に昌幸、信之、信繁の話し合いの結果、昌幸、信繁は石田三成率いる西軍につき、兄・信之は徳川家康率いる東軍につくことになりました。

まあ兄弟を西軍、東軍に分けたのは昌幸の戦略とも言われていますが。信之の妻は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘であり、幸村の妻は豊臣家臣大谷吉継の娘です。

こうなることがわかっていたのでしょうか。昌幸には・・・。まあ大谷吉継は秀吉の子であるなんて説もありますし(笑)。

昌幸、幸村親子は第二次上田合戦で徳川家本体の秀忠軍を足止めし、関ヶ原の合戦に参戦させませでした。しかし関ヶ原の合戦は西軍が負け、昌幸、幸村は敗軍の将になります。

本来なら死罪ですが、ここで信之、本多忠勝が尽力し、九度山に流罪ですみます。そして信之の真田家は、松代への国替えがありながらも幕末まで存続します。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

大坂冬の陣、大坂夏の陣

1614年(慶長19年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫が贈られました。

信繁は上田にいる旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子・大助幸昌とともに大坂城に入城しました。信繁の率いた軍は赤色で統一されました。これを真田の赤備えといいます。

大坂冬の陣では、信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与えた。徳川勢は撤退に至りました。

この戦闘で、真田幸村の武名は初めて天下にとどろきます。この戦いが真田丸の戦いです。

しかし幸村の健闘むなしく、豊臣方と徳川方は講和してしまいます。講和の条件として、堀はうめられ、真田丸も取り壊されてしまいました。

翌年の大坂夏の陣では、後方の家康本陣に突入し、馬印を倒すところまでいきますが、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち取られます。享年49。織田信長と同じ年齢ですね。

家康が二度も自害しようとしたなんて説もありますし。。このへんがいろいろ幸村の武功として、語り継がれたのでしょうか・・・。

真田幸村は生まれたのが遅かったせいもあり、成人した時には、ほぼ天下は統一されていました。幸村の能力以前に、武名を知らしめる機会がなかったのです。

大坂冬の陣、大坂夏の陣が最初で最後の見せ場だったのでしょうか・・・。

日の本一の兵、真田信繁(幸村)

大坂冬の陣の武功により「日の本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されます。

父・昌幸は「表裏比興の者」(ひょうりひきょうのもの)と評されます。「比興」は現在では、「卑怯」の当て字で用いられる言葉。「くわせもの」「老獪」という意味で使われ、武将としては褒め言葉である。

地方の小勢力に過ぎない真田昌幸が、大勢力の間を渡り歩きながら勢力を拡大して手腕と、ときには徳川家などの大勢力との衝突も辞さない武勇を評したものである。

真田十勇士

最後に真田十勇士として猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の名前があがる。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信繁 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

大河ドラマ「真田丸」たのしみですねー。三谷幸喜脚本が微妙ですが(笑)。それと大泉洋なんだよね~。兄の真田信之。。う~~~・・・。

しかし幸村は、なんで大坂城の弱点を知って、「真田丸」を築いたのでしょうか?大坂での人質時代に秀吉とそんな話をしたのでしょうか。秀吉には可愛がられたようですし、秀吉なら、そんな話もしそうです(笑)。

そんなところも、ドラマで描かればいいですね~。。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。