徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源,アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 943(文字数:5,838文字)

徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

管理人は「徳川秀忠」といえば関ヶ原の戦いに遅参、恐妻家とマイナスなイメージばかりが先行していた。しかし詳しく調べてみると、いろんなことがわかった・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

徳川秀忠

徳川秀忠(とくがわひでただ)。1579年(天正7年)4月7日~1632年(寛永9年)1月24日。父は徳川家康。母は西郷局。

名は長松(長丸)、竹千代成(幼名)、秀忠。別名は江戸中納言・江戸右大将。

兄弟は信康、亀姫、督姫、結城秀康、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、松千代、仙千代、松姫、義直、頼宣、頼房、市姫。松平忠吉は同母弟にあたる。

妻は正室・小姫(織田信雄の長女)、継室・江(浅井長政女、豊臣秀吉養女)。

墓所は増上寺。戒名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。

江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位
浅井三姉妹の末っ子で、徳川秀忠の正室・江(崇源院)。淀殿の妹ということもあり、きつい性格な人物であると思っていた。やはり小説・ドラマの影響からか間違って伝わっている部分が多い。調べてみるもんです。それと徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけということにはびっくりした。

秀忠の子女

秀忠の子女を記述。

  • 長女:千姫(天樹院)-豊臣秀頼室、のち本多忠刻室。
  • 次女:珠姫(天徳院)-前田利常室。
  • 三女:勝姫(天崇院)-松平忠直室。
  • 四女:初姫(興安院)-京極忠高室。

千姫(天樹院)。秀頼の正室。大坂夏の陣後は本多忠刻の正室
千姫(天樹院)。父は徳川秀忠。母は継室・江(崇源院)。大坂夏の陣により夫・秀頼と別れる悲劇のヒロインのイメージが強い。そのイメージが強すぎるからか、本多忠刻の正室としての千姫は、あまり知らなかった。そして天寿を全うしている・・・。

  • 次男:徳川家光-江戸幕府将軍。
  • 三男:徳川忠長-駿府城主(駿河大納言と呼ばれる)。
  • 五女:徳川和子(東福門院)-後水尾天皇中宮。

  • 静(浄光院)
  • 四男:保科正之-会津松平家初代。
  • 家女
  • 長男:長丸-夭折。

秀忠の養子

秀忠の養子を記述。

  • 喜佐姫(龍昌院):結城秀康娘、毛利秀就室。
  • 千代姫(保寿院):小笠原秀政娘、細川忠利室。
  • ビン姫(雲松院):奥平家昌娘、堀尾忠晴室。
  • 振姫(孝勝院):池田輝政娘(母は姉・督姫)、伊達忠宗室。
  • 亀姫(宝珠院):松平忠直娘(母は三女・勝姫)、高松宮好仁親王室。

  • 勝姫(円盛院):本多忠刻娘(母は長女千姫)、池田光政室。
  • 鶴姫(福正院):榊原康政娘、池田利隆室。
  • 久姫(梅渓院):松平忠良娘、黒田忠之室。
  • 崇法院:蒲生秀行娘(母は妹・振姫)、加藤忠広室。
  • 完子:豊臣秀勝娘(母は正室・江(崇源院))、九条幸家室。
  • 小松姫:本多忠勝娘、真田信之正室、家康の養女とも。

小松姫に関しては家康の養女説、秀忠の養女説がある。

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。

江戸中納言・江戸右大将

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源,画像01

徳川家康の三男として遠江国・浜松に誕生。母は側室の西郷局。乳母・大姥局によって養育。母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家である。

長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹、次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出されていたので、母親が三河国の名家出身である三男・秀忠が実質的な世子として処遇された。

  • 1590年(天正18年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛。元服のおり、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。
  • 1595年(文禄4年)、秀吉の養女・江と再婚。

織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)を妻に迎えていたが、信雄除封により離縁。

秀吉からは豊臣姓と羽柴の名字を与えられていた。

  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いた。進軍途中、信濃国・上田城攻めを行なって失敗(第二次上田合戦)
  • 1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原本戦に遅参。天候不順、進発命令の遅れと行軍の遅れといわれる。
  • 1600年(慶長5年)9月20日、大津に到着。家康に面会してもらえず。

父・家康には榊原康政ら家臣の仲介により、翌日または3日後に面会したといわれる。

関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、家康の後継者を巡って重臣たちが候補者を表明している。

  • 井伊直政:娘婿・松平忠吉
  • 大久保忠隣:徳川秀忠
  • 本多正信・正純:結城秀康

を支持したと伝わる。

本多正信・正純の父子が結城秀康を推しているのが興味深い!

  • 1603年(慶長8年)2月12日、家康が征夷大将軍に就任。
  • 1603年(慶長8年)4月16日、源朝臣秀忠として右近衛大将を兼任。

家康が徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚
本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

征夷大将軍

秀忠は右近衛大将に任命されたことにより、徳川宗家相続は確実となった。また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定。

徳川家は豊臣恩顧の大名を西国に移し、東海・関東・南東北を完全に押さえた。頼朝(右大将家)と同じく、名実ともに関東の政権を打ち立てた。

  • 1605年(慶長10年)正月、家康が伏見城へ入る。
  • 1605年(慶長10年)2月、秀忠が江戸を発つ。関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍であった。
  • 1605年(慶長10年)3月21日、秀忠が伏見城へ入る。
  • 1605年(慶長10年)4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、秀忠が征夷大将軍。徳川幕府の第2代将軍となる。

家康の参内に随行した板倉重昌も叙任。

家康は隠居となるが、これは建前上であり大御所と呼ばれた。

将軍・秀忠は江戸城に居住、大御所・家康は駿府城に住み二元政治体制となる。役割は秀忠が徳川家直轄領および譜代大名を統治、家康は外様大名との接渉を担当。

  • 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。豊臣家重臣・大野治房により本陣急襲。
  • 1616年(元和2年)、家康が死去。

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。
大野治房。秀頼の遺児・国松と脱出するが、捕われる。生存説も?
大野治房。母は大蔵卿局。兄は大野治長。兄弟とともに豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣では主戦派の中心人物の一人として指揮を執る。1649年(慶安2年)に生存説が流れたため、江戸幕府によって捜索が行われたとされる。

豊臣家滅亡後は家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定にたずさわる。

家康の死後は酒井忠世・土井利勝らを老中とする。福島正則ら多くの外様大名を改易。熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁く。

3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置。子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。弟・松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直、家康の謀臣・本多正純を改易・配流。

朝廷に対しては厳しく引き締め、娘・和子を後水尾天皇に入内させた。

鎖国政策の布石からか外国船寄港を平戸・長崎に限定。

徳川将軍家が左大臣兼右近衛大将(右大将)を嫌った理由
源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。

晩年

父・家康にならってなのか将軍引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。

  • 1623年(元和9年)、将軍職を嫡男・家光に譲る
  • 1626年(寛永3年)10月25日、後水尾天皇の二条城への行幸。秀忠と家光が上洛。
  • 1629年(寛永6年)、紫衣事件。朝廷・寺社統制の徹底を示す。
  • 1630年(寛永7年)9月12日、孫の女一宮が天皇に即位。明正天皇となる。
  • 1631年(寛永8年)、子・忠長の領地を召し上げて蟄居を命じる。
  • 1632年(寛永9年)1月、薨去。

将軍引退後は小田原城で政務を執る予定でいたが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。

「徳川実紀」によれば、家光に対しての遺言は、

「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」

である。

官歴

徳川秀忠の官位をまとめる。

  • 1587年(天正15年)8月8日、従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
  • 1588年(天正16年)1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を辞す。
  • 1590年(天正18年)1月15日、元服し秀忠と名乗る。
  • 1590年(天正18年)12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 1591年(天正19年)、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。
  • 1591年(天正19年)11月8日、参議に補任。右近衛権中将を兼帯。
  • 1592年(文禄元年)5月9日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
  • 1594年(文禄3年)2月13日、権中納言を辞任。
  • 1601年(慶長6年)3月28日、権大納言に転任。
  • 1602年(慶長7年)1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。
  • 1603年(慶長8年)4月16日、源朝臣秀忠として右近衛大将を兼任。
  • 1605年(慶長10年)4月16日、源朝臣秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1605年(慶長10年)5月1日、征夷大将軍宣下。
  • 1606年(慶長11年)、内大臣と右近衛大将を辞任。
  • 1614年(慶長19年)3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
  • 1623年(元和9年)7月27日、右大臣を辞任。
  • 1626年(寛永3年)8月19日、太政大臣に転任。
  • 1632年(寛永9年)1月24日、薨去。
  • 1632年(寛永9年)2月10日、贈正一位。

1601年(慶長6年)、1602年(慶長7年)頃までは「豊臣朝臣秀忠」として任官?

源氏長者

秀忠が征夷大将軍に就任する時、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある。「徳川実紀」にはなったとされるのだが・・・。

秀忠が源氏長者にならなかったとすれば、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。

大河ドラマ「真田丸」では星野源が演じる

大河ドラマ「真田丸」では徳川秀忠を星野源が演じる。

星野源が徳川秀忠をどのように演じるのか楽しみである!新たな秀忠像を描いてもらいたい。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

徳川秀忠 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

秀忠といえば、父・家康と子・家光に挟まれ地味な印象を与え、関ヶ原の戦いの遅れが致命的に言われることが多い。

徳川秀忠の墓の発掘調査の結果、骨にまで達する傷が数か所あったそうです。前線で戦っていた証拠である。

それも踏まえて秀忠って意外に名君だったんじゃないかと最近では思っている。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。