太閤・豊臣秀吉の死因については多くの説がある。死因についての記録が残っていないのが原因であるのだが、前から不思議には思っていた。死因についての記事ではあるが、特に毒殺説にスポットをあてている。根拠はないが、毒殺説ではないかと管理人自身は思っているからだ。他の諸説も記述している。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
太閤・豊臣秀吉の死因について、おもに毒殺説に関して記事投稿する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
豊臣秀吉の死因
太閤・豊臣秀吉の死因に関しては、諸説あるが死因に関する資料が残っていないので、はっきりとしたことはわかっていない。
諸説とは、
- 大腸癌
- 痢病(赤痢・疫痢など)
- 尿毒症
- 感冒
- 性病の脳梅毒
- 栄養の偏りによる脚気
- 過淫が原因の腎虚
- 沈惟敬(しんいけい)による毒殺
- ヒ素による毒殺
である。これだけ存在する。
秀吉の死までの症状に、大腸癌・痢病・尿毒症・感冒・脳梅毒・脚気・腎虚はあてはまるようだ。
毒殺説については、のち記述する。
体調を崩した時期
太閤・豊臣秀吉は50代後半から、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている。
1598年(慶長3年)3月、秀吉は醍醐三宝院において盛大な花見を催す。いわゆる「醍醐の花見」である。
この花見の後、秀吉は体調を崩す。5月以降は腹痛・下痢・食欲不振・手足の激痛が続き、病状は悪化し痩せ衰えた。漢方薬の効き目もなく、精神錯乱も見られ失禁することもあったといわれる。
1598年(慶長3年)7月、秀吉は自分の死期を悟る。五大老の徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に宛てた遺言を送る。
「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆頼み申し候。委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」
1598年(慶長3年)8月18日、太閤・豊臣秀吉が伏見城にて死去。享年62。
辞世の句
「露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」
辞世の句と言われるが、これは1588年(天正16年)4月に後陽成天皇の聚楽第行幸のおり秀吉が詠んだ句である。この句をしたためた短冊を孝蔵主が保管していた。
秀吉の遺骸
太閤・豊臣秀吉の死は、遺言により暫くの間、秘密にされた。この期間、秀吉の遺骸は伏見城に安置されている。
1599年(慶長4年)4月、秀吉の遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬された。
朝廷からは「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号、正一位の位階が授与された。
神として祀られ、秀吉の死は秘されていたので通夜・葬儀は行われていない。
沈惟敬による毒殺説
18世紀に朝鮮で編纂された「燃藜室記述(ねんれいしつきじゅつ)」という歴史書には、「秀吉は沈惟敬(ちんいけい)によって毒により命を落としたとされた」と記述されている。
沈惟敬(しんいけい)。明の使節である沈惟敬は小西行長・宗義智とともに和議交渉を行っている。1596年(慶長元年)には大坂城で秀吉とも面会。
「秘薬」と称した毒を一緒に飲み込み、沈惟敬(しんいけい)自身は後で、毒を吐き出したということである。
しかし秀吉が没する2年前であることから、少し無理があるとの意見がある。
ヒ素による毒殺説
秀吉は死の直前まで精神錯乱や失禁の症状があった。
ヒ素を飲み続けた時に発症する症状であることから、毒で命を落としたとの可能性を否定できないとする意見がある。
「沈惟敬による毒殺説」よりは現実性があると思う。
宣教師・ロドリゲス
ポルトガルの宣教師・ロドリゲス。イエズス会士でカトリック教会司祭。
秀吉によりキリスト教弾圧が行われるが、ロドリゲスは許されている。
宣教師・ロドリゲスは秀吉を見舞い、
「干からびたかのように衰弱しており、ぼろぼろになっている。まるで悪霊のようで人間とは思えない」
と記している。
大河ドラマ「黄金の日日」での豊臣秀吉の最期
数々のドラマで秀吉の最期は描かれた。
特に印象に残っているのが1978放送の大河ドラマ「黄金の日日」。
緒形拳が演じる秀吉の最期は壮絶であり、恐怖すら覚えた。でもインパクトがあった!
インタビューで真田丸の脚本家・三谷幸喜氏は「黄金の日日」が好きだと言っているので、真田丸での秀吉の最期は期待している。
機会があれば、是非視聴してみてほしい。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
豊臣秀吉の死因は、脚気、脳梅毒、大腸がん、それとも毒殺か?|健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS
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まとめ
1598年(慶長3年)8月18日、巨星墜つ。
秀吉の死因の記録が残っていないのが不思議だが、当時「秀吉の次は誰が天下人に」という風潮ではあったらしい。
秀吉の死因よりも、次は誰のほうが関心があったかもしれない。
記録が抹消されたのか、毒殺か、病死かはわかっていない。でもこれも歴史の面白いところでもある。
重要な発見も素晴らしいが、事実がわかっていないのも、それはそれでいいものである・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。