矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は矢沢薩摩守頼綱、第一次上田合戦で奮闘

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この記事の所要時間: 354(文字数:2,343文字)

矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は猛将・矢沢薩摩守頼綱。ドラマでは真田家の良きサポート役として描かれている。真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には警護役として同行している。第一次上田合戦では徳川家臣・大久保忠世を震え上がらせたエピソードも残っている。真田家筆頭家老であり、まさに矢沢家あっての真田家である。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

矢沢三十郎頼康(頼幸)といったら真田家の名サポート役というイメージがあるのだが・・・。

それではいってみよう!

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矢沢頼康

矢沢頼康(やざわ よりやす)。三十郎は幼名。幸貞、頼幸。1553年(天文22年)~1626年(寛永3年)3月21日。但馬守。

父は矢沢薩摩守頼綱。真田信綱や真田昌幸の従兄弟にあたる。

若い頃より沼田城代の父・矢沢薩摩守頼綱に従い、天正期には既に沼田城代をまかされていた。

1585年(天正13年)、真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には、警護役として同行している。

この年を境に父・頼綱の活動はあまり見られなくなり、書状でも父と連署したものはこの年が最初で最後になっているため、この前後に代替わりが行なわれたものと推測。

関ヶ原の戦い後には真田家当主・真田信之に仕え、大坂冬の陣・大坂夏の陣では病気療養の信之の代わりに出陣した信政・信吉らを補佐した。信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」との書状を送っている。

1626年(寛永3年)に死去。遺言により弟・頼邦が家督を相続し、子孫は代々松代藩筆頭家老職を担っている。

矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。
矢沢頼綱というとドラマの影響からか、俳優・加藤嘉の顔が浮かんでしまう。矢沢頼綱は真田幸綱(幸隆)の弟であり、真田昌幸の叔父になる。特に沼田城代としての功績が大きい。北条氏の攻撃を何度も退けている。矢沢家は真田家臣団の最高位にあり、明治に至るまで筆頭家老であった。知行高は2,000石。
真田家の祖、真田幸隆と真田昌幸親子の官位を調べた!
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真田丸、真田信繁(幸村)と六文銭
2016年1月10日から放映される大河ドラマ「真田丸」を見るにあったて、真田信繁(幸村)を調べてみた。近年ゲームキャラクターとしての真田幸村は凄まじい人気です。「真田十勇士」などの人気も手伝ってキャラクターが実際の真田幸村を超越してるように思われます。こんなこというと夢を壊すようですが。。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

第一次上田合戦

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1585年(天正13年)閏8月の第一次上田合戦では矢沢頼康は支城・矢沢城に上杉援軍と籠城。依田源七郎勢1500を退けた。

追撃戦では大久保忠世らを散々に蹴散らす活躍を見せている。

後日談として真田信之と徳川家臣・大久保忠世が第一次上田合戦を振り返る会話で、

「第一次上田合戦の殿(しんがり)は、大長刀を振りまわす音が迫って身もすくむ思いであった。真田伊豆守信之殿でしたか。」と徳川家臣・大久保忠世が称賛。

信之の返答、

「私は追激戦は下手である。それは私ではなく矢沢但馬守(頼康)でしょう。」

と言ったといわれています。

父・矢沢薩摩守頼綱と同じく、勇猛果敢であるとのエピソードです。

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

「真田丸」では迫田孝也が演じる。

「真田丸」では迫田孝也が演じてます。「三十郎」として真田源次郎信繁(堺雅人)に付き従い、登場シーンもそこそこあります。

源次郎信繁(堺雅人)を常にサポートする役を見事に演じていると思います。

「真田丸」での第一次上田合戦が楽しみですね~。勇猛果敢な三十郎も見てみたいです!

第36話「勝負」

この放送回の三十郎(迫田孝也)には泣けた・・・。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

「真田丸」第36話「勝負」感想。第二次上田合戦~超高速関ヶ原
犬伏の別れにより真田家は二分された。小山評定により、のちに東軍と呼ばれる会津征伐に従軍していた軍勢は、上方へ引き返すことを決定した。安房守・左衛門佐は上田城に戻り、急ぎ戦支度をした。上田城を中心に徳川秀忠率いる徳川軍と真田軍は再び激突した。そう、この一連の戦いは誰の目から見ても長引くはずだった・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

矢沢頼康 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

第一次上田合戦では、父である猛将・矢沢薩摩守頼綱と同じく勇猛果敢のエピソードも残っています。

まさに矢沢家あっての真田家である!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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