管理人が思う長宗我部盛親は少し可哀想な人物である。特に関ヶ原の戦いなのだが、結果だけ見ると成り行き上、西軍として参加している。本戦でも「宰相殿の空弁当」でも有名な毛利秀元、東軍に内応した吉川広家のせいで動くに動けなかった。戦闘自体に参加できていない。そんな長宗我部盛親の最期は立派であったと伝わる。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
長宗我部盛親は長宗我部氏第22代当主だが、豊臣政権の見解は・・・。
それではいってみよう!
目次
長宗我部盛親
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)。1575年(天正3年)~1615年(慶長20年)5月15日。父は長宗我部元親。母は元親夫人(斎藤利三の妹)。長宗我部氏第22代当主。
幼名は千熊丸。通称は右衛門太郎。号は祐夢。官位(官職?)は宮内少輔、土佐守。
兄弟は信親、香川親和、津野親忠、右近大夫、康豊。
正室は長宗我部信親の娘。子は盛恒、盛高、盛信、盛定、某。
墓所は蓮光寺(京都府京都市)。戒名は領安院殿源翁宗本大居士、蓮国一栄大禅定門。
長宗我部氏第22代当主
1575年(天正3年)、長宗我部元親の4男として生まれる。幼名は千熊丸。
- 1586年(天正14年)、戸次川の戦い。長兄・長宗我部信親が戦死。
- 1588年(天正16年)、世子に指名。
兄・香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争う。しかし父・元親の強硬な後押しにより世子に指名された。
家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。理由としては盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいた。
父・元親が千熊丸を世子にした理由は、
- 親和、親忠は他家を継いでいた。
- 溺愛していた信親の娘を千熊丸の正室にと考えていた。
豊臣家重臣・増田長盛を烏帽子親として元服。「盛」の一字を授かって盛親と名乗る。
父・元親とともに長宗我部氏の共同支配者として土佐の支配を行う。
- 1590年(天正18年)、関白・豊臣秀吉による小田原征伐に参加。
- 1592年(天正20年)、文禄の役。
- 1594年(文禄3年)、父・元親発給の文書が減少。事実上の代替わり。
- 1597年(慶長2年)3月24日、「長宗我部元親百箇条」を発布。父・元親と共に制定。
- 1599年(慶長4年)5月、父・元親が死去。家督相続により土佐の国主となる。
豊臣秀吉、豊臣政権は家督継承の経緯の異常性からか、盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見解がある。
豊臣政権は武家官位を重要視しており、大名と後継者に一定の官位を授けていた。盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであったとされる。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。盛親は徳川家康の東軍に味方しようとしてたとされる。近江国水口で西軍・長束正家に進路を阻まれ、やむなく西軍に味方した。
盛親は東軍の伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かった。毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣。
吉川広家の裏切りにより毛利隊は動けず、長束隊や長宗我部隊も動けず(宰相殿の空弁当)、戦闘に参加しないまま西軍は壊滅。
寺子屋で生計を立てる
西軍敗北後、領国の土佐に逃げ帰った。盛親は徳川家重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとした。
しかし家臣・久武親直の讒言により兄・津野親忠を殺害していたため、家康の怒りを買って領土没収で改易。
大名家としての長宗我部家は滅亡し、「一領具足」として名を馳せた勇猛な家臣団は散り散りになった。
牢人となった盛親は京都へ送られ、謹慎生活を送る事になった。大岩祐夢(幽夢とも)と名前を変え、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれる。また寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある。
盛親は京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれた。
大坂冬の陣・大坂夏の陣
1614年(慶長19年)秋、豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出。恩賞として土佐一国を所望したといわれる。当時としては豊臣方にも勝利する可能性があると考えられていたようである。
- 1614年(慶長19年)10月6日、大坂城に入城。出発時は6人の従者であったが、旧臣や浪人などが合流し1000人を超える軍団となった。
- 1614年(慶長19年)12月4日、真田丸の戦い。井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させている。
盛親は大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った。真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「大坂五人衆」に数えられる主力部隊となる。
豊臣家重臣・木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担う。
真田丸の戦い以降は大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立した。
大坂夏の陣では、木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣。八尾・若江の戦いでは、徳川方・藤堂高虎隊と激突。
1615年(慶長20年)5月6日未明、吉田重親が討ち死にするも、藤堂高虎隊を壊滅状態にしている。高虎の甥・藤堂高刑が討ち死。
しかし別働隊・木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつけた。盛親は敵中での孤立を余儀なくされ大坂城へ撤退。
長宗我部盛親の最期
八尾での先鋒隊壊滅、退却戦は長宗我部隊に少なからぬ痛手を与えた。大坂城近郊での最終決戦には出陣せず、大坂城・京橋口の守備についている。
天王寺・岡山の戦いにおいて大坂方の敗北が決定的になる。「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡。
1615年(慶長20年)5月11日、京都八幡(京都府八幡市)近くの男山に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかる。見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
1615年(慶長20年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首。三条河原に晒された。享年41。
これは伝説であるが、若狭の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごしたとも伝えられる。
盛親は二条城の門前に晒された時、足軽から食事に関して無礼を働かれた。これを怒った井伊直孝は「無法な振る舞い」と言い、盛親を座敷に上げ、台所方に大名料理で饗応した。盛親はこの心遣いに感激したといわれている。
長宗我部盛親の子孫
盛親の子孫は絶滅したはずであった。2015年(平成27年)6月、400年法要には盛親の物と伝わる鐙(あぶみ)を盛親の次男・盛高の血を引くという人物が蓮光寺に持ち寄った。
蓮光寺では片側だけが保存されていた。形状・配色共に一致し、100年ぶりに双方が揃った。
子孫を称する人物は、祖父が100年前の300年法要で寺から譲り受けたものとしている。
大坂五人衆
大坂冬の陣・大坂夏の陣で活躍した豊臣方の牢人たちを総称して「大坂五人衆・大坂城五人衆・大坂牢人五人衆」と呼ぶ。
メンバーは、
- 長宗我部盛親
- 真田信繁(幸村)
- 毛利勝永
- 後藤又兵衛(基次)
- 明石全登
である。
大河ドラマ「真田丸」では阿南健治が演じる
大坂の陣で真田信繁(堺雅人)と運命をともにする長宗我部盛親に阿南健治が決定した。
NHK放送のドラマで長宗我部盛親を演じた人物は、
- 1983年「徳川家康」-大久保正信
- 1985年「真田太平記」-久富惟晴
- 2000年「葵 徳川三代」-冨家規政
- 2009年「天地人」-川野誠一
である。
第42話「味方」
長宗我部盛親のキャラ設定をこうしたかという感じだった。笑ってしまいました(笑)。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
以前から長宗我部盛親には、ちょっと同情してしまう。
関ヶ原の戦いでも、東軍に参加しようと思ったけど、西軍に参加せざるを得なかったとか。
毛利秀元・吉川広家のせいで戦闘自体に参加できていないとか。
極めつけは、あれだけ気前よく官位を授けた豊臣政権が盛親に官位を授けた記録が残っていないことである・・・。
可哀想だと思う部分はある。
そんな長宗我部盛親が真田丸でどこまで描かれるかはわからないが、大坂五人衆としての大坂冬の陣・大坂冬の陣が楽しみデス!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。