豊臣秀吉時代(城主・中村一氏)の駿府城は、「太閤軍記」や「家忠日記」に書かれたいたものの実態はわかっていなかった。駿府城跡は2016年(平成28年)より、静岡市が天守台発掘調査を行っていた。今回の発見は、その一環であり、歴史的大発見だ!
中村一氏が駿府城の城主であったのは約10年間。秀吉が関東に移封した徳川家康の抑えとして一氏を駿府城主とした。
管理人は天守台発掘調査が始まった二年前に駿府城跡を訪れている。だから管理人にとっても駿府城は思い出の城になる。
そして今回の歴史的発見だ・・・
中村一氏時代の金箔瓦、自然石を積み上げた野面積みの天守台石垣を発見
2018(平成30年)年10月16日、田辺信宏静岡市長より定例会見にて以下のことが発表。要約すると駿府城(静岡市葵区)の跡地から以下の2点が発見された。
- 約330点の金箔(きんぱく)瓦
- 自然石を積み上げた野面積みの天守台石垣
いづれも豊臣秀吉が中村一氏に築かせたものであるようだ。1590年(天正18年)の小田原征伐後、徳川家康は関東に移封。駿府城には豊臣家三中老・中村一氏が入城した。一氏は秀吉の支援を受けて築城。
金箔(きんぱく)瓦や野面積みの天守台の石垣から、豊臣期の城の特徴に間違いないという。
天守台の発掘調査
駿府城跡では、2016(平成28年)年より、静岡市により天守台の発掘調査が行われていた。
2018(平成30年)年6~7月、現在の駿府城趾(じょうし)の天守台付近から、金箔で装飾された大量の瓦が出土。
2018(平成28年)年8月、天守台の南東角に重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣(南北約37メートル×東西約33メートル)が発見された。
石垣は自然石を積み上げた「野面積み」の技術を使用。金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。
管理人は2016年10月頃、駿府城跡を訪れています。駿府城関連の記事を投稿しているので、よろしければ参考にしてください。
静岡市は、2018年10月20日・21日に無料で臨時公開(午前9時~午後4時)をした。事前登録不要。調査員ガイド付き。
幻の城
これまで、太閤軍記や家忠日記の文面に中村一氏が駿府に入城したという記録はあったが、駿府城の場所などの実態は分かっていなかった。
そのことから一氏時代の駿府城については詳細が明らかでなく、「幻の城」とされていた。
中村一氏について調べたので書きます。
中村一氏
中村一氏(なかむらかずうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣政権の三中老の1人。?~1600年8月25日(慶長5年7月17日)。
※三中老(さんちゅうろう)は、豊臣政権末期に制定されたとされる役職。小年寄・小宿老とも呼ばれる。政事に参与し、五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役であった。生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の三人が任命されたとされる。しかし三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある。
- 別名:孫平次
- 戒名:大竜院殿一源心公大禅定門
- 墓所:臨済寺(静岡県静岡市)
- 官位:従五位下式部少輔
- 父:中村一政?、母:不明
- 兄弟:一栄、右近?、横田村詮室
- 子:一忠、甚左衛門
中村一氏の経歴
- 1573年(天正元年)頃、羽柴秀吉より近江長浜のうち200石を拝領。
- 1577年(天正5年)、摂津国の天王寺攻略。
- 1582年(天正10年)、山崎の戦い。鉄砲隊を指揮して武功をたてる。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いに参戦。
1583年(天正11年)、和泉国岸和田城主となり3万石を拝領。蜂屋頼隆の後任。和泉国衆を傘下にし、大坂の防衛および来たるべき「紀州攻め」に備える役割を与えられた。和泉国はいまだ秀吉政権に服属しておらず、紀州の根来衆や本願寺残党勢力により各地を支配され、緊張状態が続いた。
- 1584年(天正12年)正月一日、紀州勢は岸和田城を襲撃。一氏らはそれらを撃退。
- 1584年(天正12年)3月22日、紀州勢の猛攻を受ける。一氏はなんとか岸和田城を死守。
- 1585年(天正13年)、反転攻勢においても主導的役割を果たす。
- 1585年(天正13年)、近江国水口岡山城主。6万石を拝領。従五位下式部少輔に叙任。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。羽柴秀次隊の先鋒。松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。
この功により、関東に移封となった徳川家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領。
- 1595年(文禄4年)、駿河直領(蔵入地)の代官として駿河一国を任される。
- 1598年(慶長3年)、三中老の一人に任命。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。東軍に属す。合戦前の7月17日(8月25日)に病死。合戦には弟・中村一栄や、家督を継いだ長男・中村一忠が出陣。美濃・関ヶ原で戦った。
その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられた。
中村一忠は米子城改修までの間、尾高城に滞在する。
米子城の石垣は特に印象的でした。機会があれば、皆様も訪れてみてください。米子城の記事では、1603年(慶長8年)の「米子騒動」にも触れています。
1609年(慶長14年)、一忠が急死。跡継ぎのいなかった中村家は断絶。江戸幕府により改易。
関ヶ原への道
豊臣秀吉時代の関東近辺の城は金箔瓦をほどこし、豪華絢爛であったという。何も金箔瓦は駿府城だけではなかったようである。秀吉の権勢を家康に誇るためだったされている。
秀吉の死後、その城主たちの殆どは徳川家康に味方した。福島正則までもが・・・
「Raod To 関ヶ原」ではないが、関ヶ原への東海道近辺の大名たちは、軒並み徳川家康によって口説き落とされた。「小山会議」しかり、家康の一氏の説得しかりである。
これにより関ヶ原への道が開かれた。家康にとっては天下人への道が開かれたといっていいだろう。
晩年の中村一氏を思う時、家康と一氏の会談が思い浮かぶ。秀吉が家康牽制のために任命した金箔瓦の城主たちは機能しなかった。
豪華絢爛のはずの金箔からは、虚しささえ感じてしまう・・・
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
家康の駿府城、発掘したら秀吉の「幻の城」 金箔瓦出土:朝日新聞デジタル
まとめ
調査に関わった静岡大の小和田哲男名誉教授によれば「大御所家康の駿府城の下に豊臣政権下の中村一氏の駿府城があったことが分かったのは大発見だ。さらに下には天正13年着工の家康による5カ国時代の駿府城が埋まっている可能性がある」と期待を膨らませているという。
二年前、管理人の駿府城記事では、また違った駿府城を見れることを期待していると記事を締めくくっています。
そして今回の秀吉の「幻の城」駿府城からの発見だ。
5カ国時代の駿府城発見を願って記事を締めくくりたいと思う・・・
お読みくださってありがとうございました。それでは。