加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。
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加藤清正の死因について。おもにハンセン病と毒饅頭(どくまんじゅう)暗殺説を書く。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
加藤清正の死
加藤清正は熊本に帰る途中に発病し、口がかなわなくなり、健康は回復しなかった。遺言はなかったとされる。
- 1611年(慶長16年)3月、二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見を斡旋。
- 1611年(慶長16年)6月24日、帰国途中の船内で発病し熊本で死去。享年50。
赤尾口で荼毘に付された。
のち、その場所には庵が建てられ、「静慶庵」と名付けられた。(九州森林管理局内に碑がある)
1611年(慶長16年)10月13日、嫡子・虎藤(忠広)の帰国後に本葬。
日蓮宗・京都本山本圀寺貫主である日桓の引導により厳修された。
清正の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された。
死因
加藤清正の死因は諸説ある。
死因としては、
- 好色ゆえの虚ノ病(腎虚・花柳病)
- 家康またはその一派による毒殺説
- 瘡(癩病・ハンセン病)
がある。
暗殺説の中でも
- 二条城会見での料理による毒殺
- 毒饅頭(まんじゅう)による毒殺
など様々にある。
池波正太郎の「火の国の城」は、根強い毒殺説を題材としている。
瘡(癩病・ハンセン病)
死因は瘡(かさ・梅毒の俗称、癩病、ハンセン病)であったとする説がある。
罹(り)患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。
明治20年代まで熊本市・本妙寺には、梅毒・ハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑することが珍しくなかった。
理由としては、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである。ほか全国の寺社でも同様の現象が起こっていた。
イングランド国教会の伝道師だったハンナ・リデル(女性)は、この寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。
彼女は、日本のハンセン病の歴史において、大きな足跡を残したひとりである。
日蓮宗とハンセン病
本妙寺は日蓮宗の寺院である。
日蓮宗には元々「癩病(ハンセン氏病)は法華経を謗った(そしった)報い」であるという考え方が存在する。
法華経信仰とハンセン病平癒、熱心な日蓮宗信者とされる加藤清正が結びついたことに由来するという考えもあり、清正の死因とは結びつかないという説もある。
毒饅頭暗殺説
1611年(慶長16年)3月、徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見の直後、会見場で秀頼を護衛した加藤清正が急死。
時期が時期だけに、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が噂され、のちに歌舞伎の題材にもなっている。
話の内容としては、
家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい自分の命と引き換えに秀頼を守ったという。
たしかに史実では、加藤清正と平岩親吉は会見後に死去している。
二人の死去した日にちは、
- 加藤清正-1611年(慶長16年)6月24日
- 平岩親吉-1611年(慶長16年)12月30日
である。
同じ毒の影響にしてはあまりにも差があること、このような遅効性の毒は知られていないため歌舞伎の内容は俗説と見られている。
この会見から2年ほどの間に浅野幸長、池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡しているが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがある。
真田丸での加藤清正の最期
真田丸での加藤清正の最期は第38話「昌幸」で描かれている。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
結局のところ、憶測の域は出ないが梅毒説が有力なのだろうか。
しかしこの時期、豊臣恩顧の大名が数名死ねば、毒殺の噂があがるのも無理は無い。
相手が、あの家康なだけに・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。