大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」で伏見城の絵図面が登場したので、慶長伏見地震を調べてみた。死者は1,000人を超え、伏見城でも600人が圧死したと伝わる。この地震での著名な死者は加賀爪政尚、横浜一庵。慶長伏見地震は歌舞伎・落語「地震加藤」の題材にもなっている。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
伏見城つながりということで慶長伏見地震について記事投稿する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
慶長伏見地震
慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)。慶長伏見大地震とも呼ばれる。
1596年(文禄5年)閏7月13日の子の刻、現在の京都・伏見付近で発生した大地震。
京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超える。
著名な死者は加賀爪政尚、横浜一庵。
マグニチュード(M)7.25-7.75程度と推定。現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したとされる。
完成したばかりの伏見城天守も倒壊し、城内だけで600人が圧死したと伝わる。
木津川河床遺跡・内里八丁遺跡(八幡市)らでは顕著な液状化跡が見つかり、玉津田中遺跡(神戸市)や田能高田遺跡(尼崎市)らで、液状化現象が発生した痕跡がある。
また今城塚古墳(高槻市)と西求女塚古墳(神戸市灘区)における墳丘の地すべりは、この地震による地震動によるものであると推測されている。
他の地震との関連
慶長伏見地震の4日前には現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震、前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾-日出生断層帯の東部を震源とする慶長豊後地震(ともにM7.0と推定)が発生している。
慶長伏見地震は上記2つの地震による誘発地震の可能性が指摘されている。
これら天変地異の影響により、同年中に文禄から慶長へ改元が行われた。
1995年の兵庫県南部地震(M7.3)は、本地震で破壊された六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されている。
地震加藤
慶長伏見地震は歌舞伎・落語「地震加藤」の題材として扱われている。
歌舞伎「増補桃山譚」(ももやまものがたり)の通称。初演は1869年(明治2)東京市村座。
話の内容は、真夜中に発生した慶長伏見地震のおり、謹慎中の加藤清正が伏見城へ駆けつけ秀吉をおんぶして脱出し謹慎を解かれるというものである。
補足すると、清正は石田三成の讒言で秀吉の怒りをかい閉門中であった。
実際はというと清正が地震発生から2日後の日付で地震について領国に伝えた清正自身の書状がある。
内容は、秀吉一家の無事であったこと、伏見の屋敷がまだ完成していなかったために被害を免れたこと、京都から胡麻を取り寄せる予定であったことが書かれている。
よって清正は大坂屋敷に滞在していた可能性が高いため、逸話は史実ではないとみられている。
天正大地震
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」では、天正大地震についても少し触れている。
天正大地震についても書いておく。
天正地震(てんしょうじしん)は、1586年(天正13年)11月29日に日本の中部で発生した巨大地震。
天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。
また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震とも呼ばれる。
飛騨国・帰雲城
天正地震の被害として飛騨国・帰雲城についても書き留めておく。
帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没。
城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
大河ドラマ「真田丸」で慶長伏見地震が扱われるかわからないが調べてみた。
「地震加藤」のこともあるので描いてほしいものです。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。