徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
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それではいってみよう!
目次
徳川への改姓、従五位下三河守叙任
最初に1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。
名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。無位ではあるが「蔵人佐」を名乗る(自称なのかはわかりません)。
1566年(永禄9年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓しました。近衛前久の力添えです。
しかし家康個人だけ、氏は「藤原氏」です。管理人はこの時「源氏」だと思ってました。家康は、のちに「源氏」「藤原氏」を巧みに使い分ける。秀吉政権下では、秀吉に気兼ねして「豊臣氏」であったと思われる。
そもそも祖父・清康から松平家は「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称。しかし朝廷サイドは「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例はない」と拒否。
ここで近衛前久の登場です。松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏(とくがわし)を名乗った文献があること、また新田系得川氏(にったけいとくがわし)が藤原姓を名乗ったことがあることなどを主張し、「家康個人のみが「徳川」に「復姓」する」という奇策を考案した。
この特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下・三河守に叙任された。さすが五摂家筆頭の近衛前久である。
豊臣秀吉へ臣従、豊臣姓を下賜
その後、徳川家康は豊臣秀吉へ臣従します。この時期、家康は「源氏」への復姓を考えていたようです。しかし秀吉は朝廷から「豊臣姓」下賜。
家康はというと、正室に秀吉の妹・朝日姫をおしつけられ、人質なのか秀吉の母・大政所まで家康の元へ来ます。
というわけで家康は親族衆になり、「豊臣姓」を下賜。秀吉っていう人は「羽柴」「豊臣姓」の下賜を乱発します。「豊臣姓」の下賜は秀吉の死後も行われます。
のちに徳川家康は正二位・内大臣になるのですが、おそらく「源朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」で宣下だと思います。
秀吉の死後、「源氏」に復姓してます。
関ヶ原の戦い
家康は石田三成と豊臣武闘派の対立をたくみに利用し、また小早川秀秋などを懐柔して関ヶ原の戦いに勝利します。
大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告しています。淀殿、秀頼から家康へ褒美をとらしてます。そう、この時徳川家康の立場は、あくまで豊臣家臣である。
関ヶ原の戦いとは、豊臣家臣同士の争いである。官位では家康が秀頼を上回っていても、豊臣家は「摂関家」、徳川家は「清華家」であった。このような理由から「関白」としての天下人は断念したのではないだろうか・・・。
ここで徳川家康の官位をもう一度整理してみよう!家康は「正二位・内大臣」。上という意味では1585年(天正13年)、二条昭実・近衛信輔・菊亭晴季に従一位が授けられてます。
武家では徳川家康がトップ。源氏を見渡しても家康がトップ。
氏長者
そこで「源氏長者」という氏長者である。「氏長者」とは、「氏」の中で、通常官位が最高位の人物が任命される。帝より任命されるのだ。
ほかの「氏長者」としては、藤氏長者、平氏長者などもある。余談ではあるが、秀吉も藤氏長者であり、鎌倉幕府の執権家・北条氏も平氏長者である。当然平清盛も平氏長者である。秀吉は豊臣姓を賜ってからは、豊氏長者・藤氏長者を兼ねていた。
藤原氏全盛期には、藤原氏の藤氏長者が、ほかの氏長者を兼ねていた。
話がそれたが、徳川家康は「源氏長者」の資格十分である。あとは朝廷への根回しである。
関白職はというと、豊臣秀次解任以来、空位でした。1600年(慶長5年)12月19日、徳川家康の奏上により関白に九条兼孝が就任。五摂家に関白職を戻す。
征夷大将軍宣下
徳川家康は、徳川氏の系図の改姓を行う。徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせた。やっぱり八幡太郎義家なんだよね~。
それから征夷大将軍宣下の直前の徳川家康の官位は、従一位・内大臣である。
ついに1603年(慶長8年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。
朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例である。
念願の征夷大将軍として、幕府を開く資格を得た。
やはり関ヶ原の戦い勝利後、豊臣氏、または豊臣恩顧大名への注意、配慮。そして朝廷工作など。三年という歳月を必要としたんではないか・・・。
細心の注意を払いながら、源氏長者に就任したんではって思ってます。源氏長者は無くてはならないものだったのではないかと・・・。
まさに「鳴くまで待とう時鳥」ですね~。
「源氏長者」にスポットを当ててみました。管理人の考えは以上です。
久我敦通のスキャンダルとの関連性
太閤・豊臣秀吉の死の直後、朝廷内でスキャンダルがあった。
1599年(慶長4年)、久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし・長橋局)の密通の風聞がたった。
久我敦通・通世親子は、後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われ京都を追放された。
※勾当内侍(こうとうのないし)とは、律令制度下における宮中の役所・内侍司の判官相当の役職である「掌侍」の筆頭。「長橋局」ともいわれる。女性。
久我敦通の久我家は村上源氏で、この時期、代々「源氏長者」となっていた。家格は清華家。
久我敦通が源氏長者であったことに着目する。
「関白」は世襲ではないが、「征夷大将軍」「源氏長者」は世襲の前例がある。それに関白職に就任できるのは藤原氏と豊臣氏。五摂家を相手にするよりはと考えても不思議ではない・・・。ということを付け加えておく。
徳川家康の官位
徳川家康の官位についてを追記。
- 1566年(永禄9年)12月29日、従五位下・三河守。「徳川」に改姓。
- 1568年(永禄11年)1月11日、左京大夫。
- 1571年(元亀2年)1月5日、従五位上。
- 1571年(元亀2年)1月11日、侍従。
- 1574年(天正2年)1月5日、正五位下。
- 1577年(天正5年)12月10日、従四位下。
- 1577年(天正5年)12月29日、右近衛権少将。
- 1580年(天正8年)1月5日、従四位上。
- 1583年(天正11年)10月5日、正四位下。
- 1583年(天正11年)10月7日、左近衛権中将。
- 1584年(天正12年)2月27日、従三位・参議。
- 1586年(天正14年)10月4日、権中納言。
- 1586年(天正14年)10月27日、大坂城にて豊臣秀吉に臣従。
- 1586年(天正14年)11月5日、正三位。
- 1587年(天正15年)8月8日、従二位・権大納言。
- 1587年(天正15年)12月28日、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。
- 1588年(天正16年)1月13日までに、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
- 1592年(天正20年)9月16日、豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
- 1596年(慶長元年)5月8日、正二位・内大臣。
- 1602年(慶長7年)1月6日、従一位。
- 1603年(慶長8年)2月12日、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。
- 1603年(慶長8年)10月16日、右大臣辞任。
- 1605年(慶長10年)4月16日、征夷大将軍辞職・源氏長者は留任。
- 1614年(慶長19年)3月8日、朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
- 1616年(元和2年)3月17日、太政大臣。
- 1616年(元和2年)4月17日、死去。
- 1617年(元和3年)3月9日、贈正一位。
徳川家康は若い頃、無位ではあるが「蔵人佐」を名乗っている。
家康は最初「藤原氏」を名乗り、のち「源氏」を名乗ります。豊臣政権下では「豊臣氏」を名乗り、秀吉の死後は「源氏」に復姓している。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
日光東照宮に三体の神輿がある。正面から見て、真ん中を東照大権現である徳川家康。左に源頼朝。右に豊臣秀吉。
こじつけではあるが、天下人となるパターンとして源頼朝パターン。豊臣秀吉パターンを徹底的に研究したのではないだろうか・・・。
どのパターンでも「源氏長者」は必須だったのではないかと管理人は考える。そしてそれには、三年の歳月が必要だったんではないかと考える・・・。
「源氏長者」という角度から、徳川家康の征夷大将軍就任を考えてみました。おつきあいありがとうございました。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。