塙団右衛門(直之)。加藤嘉明に出仕するまでは謎が多い。関ヶ原の戦い後は、加藤家を退去している。のち小早川秀秋・松平忠吉に仕える。福島正則にも仕えているが、「奉公構(ほうこうかまい)」により罷免される。浪人となり出家。大坂冬の陣が始まると豊臣方に浪人衆として参加。「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒く。
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「時雨左之助(しぐれさのすけ)」を名乗ったという逸話も残る塙団右衛門についての記事投稿です。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
塙直之
塙直之(ばんなおゆき)。1567年(永禄10年)?~1615年(元和元年)4月29日。
改名は不明、塙長八、塙団右衛門直之。通称は長八、団右衛門。
変名は時雨左之助。別名は須田次郎左衛門、塙直次、塙尚之。道号は鉄牛。
正室は可部屋桜井氏。子は桜井平兵衛直胤。
墓所は泉佐野市南中樫井。
「難波戦記」などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になる。「塙団右衛門(ばんだんえもん)」の名で知られる。
出自は不詳
塙団右衛門の出自は不詳。
尾張国の人で、同姓であるため、織田家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もある。
ほかは、
- 遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話。
- 上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという話。
- 相州玉縄の住人で玉縄城主・北条左衛門大夫(綱成)の徒士となったという話。
がある。
前歴についても不詳である。
- 猟夫より身を起して織田家臣・坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられた。
- 酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話。
- 北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となった話。
- 小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって次の雇先加藤氏に口添えしたという話。
浪人中は「時雨左之助(しぐれさのすけ)」を名乗ったという逸話も登場する。
加藤嘉明に出仕
いずれにしても1590年(天正18年)から1592年(天正20年)までに、豊臣秀吉の家臣で伊予松山の大名となった加藤嘉明に召し抱えられたことは、それぞれの話で一致する。
嘉明は朝鮮の役で、青い絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた旗印を作らせた。
旗手を近習の推薦で歩小姓であった直之に任せることとし、直之はこの目立つ旗を背中に背負って活躍し、度々武功をあげて350石の知行を得た。
漆川梁海戦で、敵の番船三艘を8名で乗っ取るという手柄も上げている。
戦役後、1000石の知行をもらう鉄砲大将に出世。地位に相応しく「塙団右衛門直之」と改名。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。鉄砲大将を任されながら、命令を無視して勝手に足軽を出撃させたため嘉明の勘気を被り、
「将帥の職を勤め得べからず(=お前には将の役目を勤める能力がない)」
と叱責。
憤慨した直之は、
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」
との漢詩を、書院の大床に張りつけると、禄を捨てて出奔。漢詩を見た嘉明も激怒し、「奉公構」を出して、諸侯が直之を雇うのを妨害した。
異説としては、
嘉明が罪人の捕殺を塙団右衛門と藪与左衛門の二人に命じた。
与左衛門が任務を忠実に果たしたのに対して、団右衛門は寒い日であったので斬り合いの最中に悠然と火にあたって暖を取っていた。
検分した嘉明は首級を挙げた与左衛門に白銀10枚を与え、団右衛門は豪胆を賞して感状を与えただけだった。
後に行賞された際に、与左衛門の知行は1300石となったが、団右衛門の知行は1000石に留まり、これに不満を持った団右衛門は出奔したのであるという話も存在する。
奉公構
塙団右衛門は、「奉公構(ほうこうかまい)」の身であった。
※奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)。武士に対する刑罰の一つ。大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことをいう。
小早川秀秋は嘉明よりも格上のために遠慮せずに彼を召し抱えて、直之は1000石の知行で鉄砲大将となった。
- 1602年(慶長7年)10月、秀秋の死去により小早川家が断絶。団右衛門は浪人となった。
- 1607年(慶長12年)3月、徳川家康の子息・松平薩摩守忠吉が死去により断絶。再度浪人となる。
小笠原吉光の知遇を得て、忠吉に仕えていた。
次いで福島正則が馬廻として召し抱え、1000石の知行を得た。
1609年(慶長14年)、名古屋城築城。嘉明が正則に抗議して、奉公構を守るように迫ったため罷免。
妙心寺・大龍和尚のもとに寄宿し、一時期は剃髪して仏門に入って「鉄牛」を称す。
しかし刀脇差しを帯びた姿で托鉢をして檀家の不興を買った。
夜討ちの大将
1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。塙団右衛門直之は還俗。
山縣三郎右衛門なるものを家来として近江路を進む。
関東方(徳川方)は多勢で功をあげても禄は期待できないが、豊臣方ならば大功上げれば大名にもなれると相談し、決心して引き返して豊臣方に参加。
浪人衆の1人として大将・大野治房の組に預けられた。
1614年(慶長19年)11月17日、直之は米田監物とともに蜂須賀至鎮の陣に夜襲。その家臣・中村右近を討ち取る。
直之は本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、
「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」
と書いた木札をばら撒かせた。これは嘉明に対して自分には将帥の才もあることを示すためだったと言われる。
「本町橋の夜戦」である。
1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。部将の1人に任じられた。
「紀州攻め」において大野治房の指揮下で出陣。浅野長晟と対戦。
1615年(慶長20年)4月29日、樫井の戦い(かしいのたたかい)。一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競い合って突出。
治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。直之は浅野家臣の田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田重安の家人)らと交戦。
団右衛門の最期には、
- 直之は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られた。
- 亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも言う。
の説がある。
直之の僚友・淡輪重政は、その戦死を見て敵中に斬り込み討死。
大将・大野治房は願泉寺で食事をとっており、敗報を聞き退却。
大坂方では生還した岡部大学が勇士・塙直之を見殺しにしたとの批判が上がり、岡部は戦闘時は奮戦したものの退いたことを恥、一時切腹を覚悟し落城の後には名を変えて隠棲した。
直之の墓所は、大阪府泉南郡南中通村大字樫井(現在の泉佐野市南中樫井)にあり、大阪府道64号和歌山貝塚線(熊野街道)沿いに、淡輪重政の墓と隣接して存在する。
塙団右衛門の逸話
塙団右衛門の逸話を少々。
樫井の戦いでは、旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を知らしめた。江戸時代の講談において、人気を博した要因となっている。
「宮城県史」によれば、大坂の陣の際に伊達勢に捕えられた直之の娘が侍女として召抱えられ、のちに伊達政宗の側室となったという説話が紹介されている。
この娘が政宗の四男・宗泰の生母・祥光院であるとされるている。
しかし宗泰は1602年(慶長7年)生まれなので辻褄が合わず、また伊達氏の家譜では宗泰生母の名前・出自ともに不詳であるとしている。
大河ドラマ「真田丸」では小手伸也が演じる
大河ドラマ「真田丸」では塙団右衛門を小手伸也(こてしんや)が演じる。
2000年放送の大河ドラマ「葵 徳川三代」では、須藤正裕が演じている。
第42話「味方」
小手伸也(こてしんや)さんの塙団右衛門が誰かに似てるなと思った。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
小手伸也さんに引用リツイートされた
それは管理人がTwitterでフォロワーさんのリツイートを引用リツイートしたのが始まりだった。
内容は第42話「味方」で、小手伸也さん演じる塙団右衛門が使用した「塙団右衛門参上」の木札をスタッフから貰ったというものである。
管理人は
「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」!!
の言葉を添えただけ。
それを小手さんが引用リツイートしてくれた。
内容は「夜討ち」の答えは第46回で明らかになるということ。
管理人は素直に嬉しかった!
芸能人が自分のツイートに反応してくれるなんて、思ってもいなかったもので・・・。
あまりに嬉しくて、記事追加をしました。
本当に小手伸也さん、ありがとうございました!!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
奉公構(ほうこうかまい)で有名なのが、同じく大坂の陣に参加する後藤又兵衛(基次)。
管理人は塙団右衛門(直之)についての詳細は知らなかったので勉強になりました。
真田丸に感謝です!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。