文英清韓(ぶんえいせいかん)。伊勢国の出身。臨済宗の僧。京都・東福寺の長老、南禅寺の長老。晩年は身柄を拘束され駿府で蟄居。清韓は漢詩文に秀で、京都・方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。あの「国家安康」の銘文である・・・。
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方広寺梵鐘の銘文を起草者としても有名な南禅寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)についての記事投稿です。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
文英清韓
文英清韓(ぶんえいせいかん)。1568年(永禄11年)~1621年(元和7年)3月25日。伊勢国の出身。臨済宗の僧。
俗名は中尾重忠。諱は清韓。字は文英。号は不放子。
南禅寺の長老
出家後、文禄の役では祐筆として加藤清正に従い朝鮮半島に渡る。
1600年(慶長5年)、京都・東福寺の長老。
のち南禅寺の長老となった。
方広寺鐘銘事件
清韓は漢詩文に秀でいた。
- 1614年(慶長19年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。
- 1614年(慶長19年)8月、且元に同行して駿府へ弁明に向かう。
銘文に不吉な語句があることを徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めた。いわゆる「方広寺鐘銘事件」である。
清韓自身は家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明している。
しかし五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼儀として問題視し、諱を避けなかったことについて五山僧から非難されている。
方広寺鐘銘事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が以心崇伝らと画策して問題化させたとの通説もあるが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられている。
晩年
事態は鐘銘問題から徳川家と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣の遠因となった。
清韓も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあっている。
清韓は大坂の陣にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡。
しかし駿府で拘禁され、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許された。
1621年(元和7年)3月25日、文英清韓が死去。
大河ドラマ「真田丸」では植本潤が演じる
大河ドラマ「真田丸」では南禅寺の長老・清韓を植本潤(うえもとじゅん)が演じる。
方広寺梵鐘(ぼんしょう)の銘文を起草した人物だけに、どのように演じてくれるのか楽しみである。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
いつも思うけど、方広寺梵鐘の銘文って徳川家の一方的な言いがかりでもなさそうなんだよね。
結果的に大坂冬の陣の原因の一つになり、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してしまうのだが・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。