「真田丸」第40話「幸村」感想。方広寺鐘銘事件と「真田幸村」誕生
明石掃部頭全登の来訪は風雲急を告げた。そして片桐且元。且元は振り返りながら語り始める。方広寺鐘銘事件がキッカケのようだ。豊臣家と徳川家は一触即発。戦いは始まろうとしていた。信繁は決意する。ここから真田左衛門佐幸村の物語が始まる。今まで全てが前フリだったかのように・・・。
主に歴史/ドラマ/野球/サッカー/芸能/ウイニングポスト(Winning Post)8シリーズなどの情報を扱う。blog.aoplanning.com
明石掃部頭全登の来訪は風雲急を告げた。そして片桐且元。且元は振り返りながら語り始める。方広寺鐘銘事件がキッカケのようだ。豊臣家と徳川家は一触即発。戦いは始まろうとしていた。信繁は決意する。ここから真田左衛門佐幸村の物語が始まる。今まで全てが前フリだったかのように・・・。
真田信繁とその一行は、九度山村での幽閉生活に慣れてしまっていた。それ故、兄・信之にも助命嘆願を断っている。その代わりってわけではないが、資金援助を申し出ている。実際は九度山も苦しかったようだが、信之の上田も苦しかったようである。そして関ヶ原の戦いから14年、信繁の元に大坂より使者が・・・。
安房守と左衛門佐の九度山幽閉生活が始まった。この生活がいつまで続くかわからない。伊豆守が奔走するが、家康が許さない。世の情勢は、完全に豊臣から徳川に移った。豊臣秀頼は立派な若武者に成長した。しかし立派であるがゆえに家康は・・・。そして安房守の命が尽きようとしている・・・。
安房守と左衛門佐の処遇は九度山流罪。真田伊豆守と本多忠勝の尽力により死罪だけは免れた。そして真田家は伊豆守を当主として残る。上田の領地も伊豆守が治める。犬伏の別れは、無駄ではなかった・・・。とにもかくにも真田家は残る。そして大坂城にて左衛門佐は、治部殿と刑部殿の最期を聞かされる・・・。
犬伏の別れにより真田家は二分された。小山評定により、のちに東軍と呼ばれる会津征伐に従軍していた軍勢は、上方へ引き返すことを決定した。安房守・左衛門佐は上田城に戻り、急ぎ戦支度をした。上田城を中心に徳川秀忠率いる徳川軍と真田軍は再び激突した。そう、この一連の戦いは誰の目から見ても長引くはずだった・・・。
徳川内府(だいふ)が上杉・会津征伐の留守中に治部殿は刑部殿を味方に引き入れ挙兵。真田家の方針は、会津征伐に従軍する振りをして家康を倒すことだった。しかし安房守より早くに豊臣方は決起し挙兵してしまった。そして安房守・伊豆守・左衛門佐の三人だけの会談が始まる。三人が出した答えとは・・・。
治部殿は徳川屋敷襲撃を画策したが未遂に終わった。暫くの間、伏見・石田屋敷で謹慎していたが、前田利家の尽力により謹慎は解かれた。その前田利家の寿命は尽きようとしている。この時期、利家は豊臣家の精神的支柱でもあった。秀吉の遺言により、秀頼の後見役であり、豊臣家諸将に対して睨みもきいた。しかし槍の又左は・・・。
刑部殿が心配していたとおり、治部殿と家康の対決の構図になってしまった。源次郎信繁と刑部殿は、治部殿に諦めさせるために策を尽くす。治部殿は追い詰められた。しかし追い詰められた治部殿を皆が救う。治部殿を取り巻く刑部殿・源次郎信繁・景勝・兼続に泣けてくる・・・。
1598年(慶長3年)8月18日、巨星墜つ。太閤・豊臣秀吉が死去。遺言どおり「五大老・五奉行」の合議制による政治は始まった。しかし徳川家康が足並みを見だす。多数派工作の宴を開くは、禁止されていた大名同士の縁組を結ぶ。早くも「五大老・五奉行」の合議制は暗礁に乗り上げる・・・。
秀吉は源次郎に「頼む、秀頼を」ではなく「頼む、佐吉を・・・」と言った。この時の秀吉は昔に戻っていたと思う。そして出浦昌相と本多平八郎忠勝の大立ち回り。「終焉」というタイトルにふさわしい放送回であった。「頼む、佐吉を・・・」の言葉に涙した・・・。