「 歴史 」一覧

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源

徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る

高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る

高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も

天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?

豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?

1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。

大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純

大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純

大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。

聚楽第落首事件。聚楽第落書き事件、豊臣政権への批判~金配り

聚楽第落首事件。聚楽第落書き事件、豊臣政権への批判~金配り

1589年(天正17年)2月25日、いわゆる聚楽第落首事件は起きた。歴史を冷静に見れる現代人の我々からすると、豊臣政権の崩壊の始まりというか前兆みたいな事件だ。秀吉の処罰の仕方が尋常でない。狂ってるとも言える。時の権力者は批判されるが、よく思ってない人が大勢いた証拠なのか。どう考えてもこの辺から秀吉おかしいよね。

毛利勝永。大坂五人衆とよばれ、大坂夏の陣では豊臣秀頼を介錯

毛利勝永。大坂五人衆とよばれ、大坂夏の陣では豊臣秀頼を介錯

豊臣家の譜代である毛利勝永。大坂五人衆のひとりである。父は毛利勝信(森吉成)。尾張出身で官位は従五位下・豊前守。名前は森吉政、毛利吉政、毛利勝永。通称は豊前守。号は一斎。兄弟は弟・吉近(山内勝近)。「真田丸」ではジャニーズ事務所所属の元男闘呼組・岡本健一が演じる。毛利勝永といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

大政所(仲・なか)。秀吉、秀長、朝日姫の母。「秀吉」では市原悦子

大政所(仲・なか)。秀吉、秀長、朝日姫の母。「秀吉」では市原悦子

大政所(仲・なか)。子には豊臣秀吉、秀長、日秀、朝日姫(旭姫・駿河御前)。秀吉が関白になったことにより従一位を賜っている。法名は天瑞院春岩。秀吉が天下人になったため、途中から人生が劇的に変わった人物である。僅かな期間であるが年老いてから、息子・秀吉のため徳川家康の人質になっている。死後に後陽成天皇から准三后を追号。

豊臣秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識、大和宰相~大和大納言

豊臣秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識、大和宰相~大和大納言

羽柴(豊臣)秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識。もとは尾張国中村生まれの百姓である。兄・秀吉が天下人になると100万石を超える大大名になった。領地と官位から大和宰相、大和大納言と呼ばれた。豊臣政権では政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。また秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったのだが・・・。